坂本直寛の 自由民権思想とキリスト教

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龍馬さんは幕末当時、京都にあふれている浪人たちを、蝦夷地(北海道)に移住させ、北方警備と兼ねて開拓事業に従事させたいと考えていました。
龍馬さんのこの大きな夢も計画も暗殺で、消えてしまいました。
しかし、甥(子孫)は、北海道に関わり、龍馬さんの夢は明治に入り、坂本一族の開拓移住という形で実現しました。
龍馬さんの甥に当る坂本直寛は、長姉「千鶴」の次男、高松習吉として生まれ後に坂本本家の養子となります。そんな坂本家と北海道の深い関係を元日本キリスト教会北見教会牧師(現埼玉県南浦和の日本キリスト教会南浦和教会牧師)小池創造氏が北見時代に研究し、著作を発表なさっております。小池氏の了解を頂き、連載をさせて戴くこととなりました。お楽しみください。

『坂本直寛の自由民権思想とキリスト教』著者.小池創造

『「坂本直寛と北光社」~一片の聖火予が胸中に燃えて~ 』より
1981年 自由民権百年北見実行委員会 発行

[PARTⅣ]  自由民権と国権論の相克

直寛の北海道開拓には二つの契機と目的があった。その第一は北海道に清教徒的・民主的社会(共同体)を創造する積極的事業であり、第二は北方ソ連の脅威に備え、開拓民が自ら「北門の鎖(さ)鑰(やく)」となって北海道の安全と平和を防衛する北海道砦論であった。ここにおいて直寛の民権思想と国権思想は矛盾なく統一した。
 直寛は元来、民権は国権に優先・優越し、より重く、より価値あるという民権論者であり、民権あって国権の意識と価値を認め、国権は民権を保護し、伸張する僕(しもべ)の立場にすぎないと消極的国権論を展開してきた。
ところが彼の民権中心の思想と立場に大きな変遷が起こった。その原因は何であろうか。
 彼が明確に国権論を意識しはじめたのは、多くの民権家と同様、朝鮮事変(1882年の壬午、84年の甲申の両事変)と清仏戦争(82年に勃発)からで、列強の侵略に対抗する手段として日本の国権伸張の必要を痛感した時であろう。三大事件建白運動の一つ「対外硬」はこの現れで、土佐民権家がこの運動の積極的推進者となった理由は、彼らが国権論への斜傾を強めていたためと言われる。
 思想変化の次の要因は、日清戦争である。直寛は内村鑑三を初め当時の指導的キリスト教徒と同様、この戦争を「義戦」、「天の摂理」として支持した。日清戦争後、内村は帝国主義的侵略に邁進する日本を批判し、以後反戦・平和思想を貫いたが、直寛はその点認識が異なり、日露戦争をも「義戦」、「聖戦」、天皇の稜威をあらわす「天の摂理」として捉え、逆に非戦・平和論者の内村らを峡伍隘な偏見の持ち主として批判した。ここに直寛の日本帝国主義のもつ侵略性・排外性・犯罪性、言いかえれば悪魔性を見抜けなかった盲点と限界がある。

自由と平和の課題

牧師時代の坂本直寛牧師時代の坂本直寛由民権とキリスト教の高い思想と理想をもちながら、また高潔な倫理性と深い宗教性をいだきながら、国権論の枠をこえて民権論もキリスト教信仰をも展開できなかったところに直寛の問題があったと同時に、今日のわれわれの問題と課題もここにないであろうか。
それは結局、積極的には、平和と民主主義をいかに認識し、消極的には、国防・軍事問題をいかに捉え批判するかにかかっている。われわれの守るべきは平和なのか、国家なのか。
国民とその人権を守る防衛なのか、国家と体制を守る防衛なのか。最近の防衛白書は「自由を与え得る国家体制」と言っているが、自由は、国家や体制が上から与えるものではなく、人の生得の権利であり、かつまた闘い取り守るべき財宝である。欽定憲法以来、つねにお上(かみ)から与えられ、認可され、認可されるという意識伝統をいかに打ち破り克服するかは、自由民権百年の1980年代前半の平和と民主主義を国家の理念・国是とする日本国民の回避することのできない国民的政治課題といえないであろうか。

[PARTⅢ]  三大事件建白運動と開拓思想

1884年を頂点とする自由民権運動の蜂起(激化)事件に対して直寛は、板垣ら自由党主流派と共に解党論に組したようである。彼がキリスト教に接近してゆくのもこの頃で、特に1884年本格的な高知伝道と共に、直寛はキリスト教に入信するに至るが、これは自由民権運動の挫折・閉塞と自由党解党の結果、自己の思想と行動の基盤、すなわちアイデンティテ―を失った直寛が、キリスト教に逃避あるいは転向したと見るべきでないことは先述のとおりである。
1887(明治20)年夏、条約改正問題をめぐって民権論が再び沸騰し、政界は混迷・激動をきわめ、ついに自由民権が再起した。「地租軽減、言論・集会の自由、外交失策の挽回」を求める請願・建白が全国から殺到した。この三大事件建白運動に直寛は、片岡健吉らと共に建白総代として上京し、徹底的弾圧を決意した政府の保安条例により、その不当性・不法性に抗議しそれを否定したため逮捕され、東京石川島監獄に幽閉され、憲法発布による恩赦で釈放される1889年2月11日まで1年3か月収監の辛酸をなめたのである。
ところが保安条例抗拒罪に基づくこの投獄は、直寛の信仰と自由民権運動に新たな地平と、偉大な思想と理想を与えただけでなく、その霊性は深められ清められていった。
直寛が石川島監獄で与えられた思想と理想とは、すなわち北海道開拓事業である。彼は拓殖事業を発起した原由を次のように語る、「予は獄中に於いて聖書を読み大いに深く感ずる所ありき・・・・・或る日精神消沈し凄乎の情胸に満し際、不図申命記八章に読み当たりて大いに神の恩寵を受け、此章を通読するや予が精神忽ち鼓動し・・・・・恰も一片の聖火予が胸中に燃えて憂愁の情を焼き盡したるが如き感ありき。之に由て予は、人はパンのみにて生きる者に非ず、人はエホバの口より出ずる道(ことば)によりて生きる者なり、との言を実験せしのみならず、神がモーセをしてヘブライ国民建設の偉業を為さしめ給ひたる事蹟を深く心に銘するに至り、予は之によりて若し聖意に適はば将来神によりて或る事業を試みんとの希望を養ひぬ。是れ予が拓殖事業を経営せんとする思想を越したる基にして、聖書は実に予をして此理想を起さしめたるものと云ふべし」
(予が信仰経歴 下線 筆者)。

このような思想を聖書より啓示された直寛は、出獄後、妻を失う不運の中にも、政界と伝道会において活動を続ける。しかし1893年以降、政界には再び立たず、ひたすらキリスト教伝道に精力を集中する。この年は、同志武市安哉が国会議員や自由党の政治家たちの変節や汚職に失望し、また民権家の理論的指導者さえ青楼に遊ぶ非倫理的な行動と生活に希望を失い、「結論としては、人間の改革である。それはキリスト教を信ずることによってのみ可能である」(崎山信義著『ある自由民権論者の生涯』)と喝破して、自ら国会議員の地位と名誉を放てきし、郷党健児三十人を引き連れ、民主的キリスト教的理想の郷「聖園農場」を北海道石狩国樺戸郡浦臼に創業した年でもある。直寛も安哉も共に政界を離れ、伝道と開拓事業に盡力した主なる理由は、日本の真の民主化の道は個々の人間改革と革新された、人間の自主独立なしにはありえないとの思想を石川島の獄中で示されただけでなく、さらに政界や社会の汚職の中でそれをいよいよ確信したためであろう。
また投獄そのものがいかに彼の信仰を深め霊性を清めたかは、自叙伝の次の言葉からも明らかである。「然れば予らが繫獄は決して徒らなる事に非ず。神は予らをして恰も実地の神学校に入らしめ、予らが信仰を一層鍛錬せしめ、兼(ママ)て又予らが同囚の兄弟に由て可憐なる囚人等に多く道を伝えしめ給へり。

影暗き囚(ひとや)の庭の草花だに 神は恵みをもらさざりけり」(「予が信仰之経歴」)

そればかりか政府を改革し、顚覆する目的をもって絶えず政府を批判、攻撃してきた直寛は、政府のために祈り、取り成す祈りの人と変わった。政府のなすところが国家のためにならないのは、彼らが世人より暗愚なるゆえんでなく、罪に囚われているため彼らもまた神の赦しの恵みにあずかることなしには、結局罪の縄目より脱出することができない。しかもこの弾圧は政府によって抑圧されている者ばかりではなく、抑圧する側の政府までも徹底的に非人間化する事実を見て、彼は悪を持って悪に報いず、かえって「善をもって悪に勝つ」(ローマ人への手紙十二章二十一節)聖書的信仰に高められていった。

直寛の北海道開拓とその意義

004.JPG坂本直寛顕彰碑(北見市北光)直寛は1896(明治二十九)年8月10日札幌で新渡戸稲造札幌農学校教授らと共に、「北海道の発達」について講演した。これは彼が翌年社長として入植する「北光社」の設立の動機と理由、思想と理想、目的と使命を具体的政策として説いた講演である。これは「海外移民論」(1895-6年)、「片岡健吉に宛てた書翰」(1896年)、「北海道に拓殖事業を興さんとする意見」(1897年)、「予が拓殖事業を発起したる元由」(1909年)(以上三編は坂本直寛著作集収録)と共に直寛の北海道開拓・発展論を知る上で欠かすことのできない文献である。
直寛は、日清戦争後、北海道の拓殖・開発の実効の上がらない理由は、政府も民間も拓殖に対する確固たる構想と政策を欠いているためだと批判した。「小作人を寛大に取り扱ってはいけない。これを牛馬の如く使役して疲労させよ。逃亡を防ぐため前金を渡すな」と語る人士に北海道の開拓が可能かと問う。彼はこの講演においてEdward J.Tayne History of European Colonies(1889)を援用して語る。

なわち、
第一  殖民地は必ず労働の場所たるべくして、決して遊惰なる場所たらざる事
第二  殖民地の繁栄は多忙なる個人の思想と労働との任務ありて、決して遠隔よりの力によりて機関を使うが如きものにあらざること
第三  殖民地は或る行為の自由無くして干渉によりては発達せざる事
第四  殖民地は殖民の品行高潔なるに非れば決して盛大を期する能はざる事

北海道の健全な発展・進歩にはこれらの精神と原則を必要ととする。正直な勤労、干渉や遠隔操作排除、開拓者の自由と独立。本国政府の干渉と依存のあったラテン国家の殖民政策が失敗し、自治に方針を採用した英国植民地が成功したのは、殖民の自由独立、自治精神が確保されたからにほかならない。個々の人民に自治独立の精神がなければ、国家の確固たる独立も望みがたい。ロシア、フランス、ドイツの三国同盟の干渉の中で、とりわけロシアの図南野心と策動の激しい時、「北門の鎖(さ)鑰(やく)」たる要地に位する北海道とその開拓民は、独立自治の精神を涵養し、時に臨んで内地(本州)に依頼、依存すべきでないと強調した。
要するに直寛は、北海道に自治の気性を喚起し、自治区を設立、もって国民自治の基を開べしと説き、決定的要因は宗教、すなわちキリスト教であると主張する。「彼の地に拓殖の事業を設計し、将来日本社会に一つの潔き義に生きる神の国を作り度存候」(片岡健吉宛書翰)、「小生は伝道と教育を以て将来聖村を建設する考へに有之候」(「北海道に拓殖事業を興さんとする意見」下線筆者)と直寛は述べている。
敬神の念(信仰)と自治の精神がなければ、その社会と共同体は品格と風紀とを失う。小作主義は人に自治精神を涵養できないゆえ、北海道開拓は「小土地を与えて小地主となし、もって自治独立の人としなくてはならない」(同講演)。これは当時政府が、天皇制支配下に明治絶対主義と中央集権国家形成の確立を求め、そのもとで編成された資本家・大地主・華族による大土地所有の殖民政策や屯田兵制に基づく開拓に対する批判であると共に、北光社の開拓がいかに質的にも内容的にもそれらと異なっていたかを明らかにするものと言えよう。
北海道社会の精神的・倫理的状態の嘆息に堪えがたいことを指摘し、「義は国を高くし、罪は民を恥ずかしむ」(箴言14・34)・・・・・罪は不義を意味す。今日北海道の有様を見れば特に宗教的道徳の修練を要す。清教徒の如き人志(ママ)か宗教によらずんば得べからず。今日の如き切迫の時代に於いては清教徒的の正義なる人を要す。我邦人玆に注意して此の精神を養成発達せしめずして可ならんや」(「北海道に拓殖事業を興さんとする意見」)と訴えた。

[PARTⅡ]  土佐のキリスト教と直寛の入信

images.jpg「北光社移民団入植者名」碑(北見市)土佐とキリスト教の関係は、一般に想像するよりはるかに古く、遠く戦国時代にさかのぼる。土佐藩の宗門改めはきびしく、桑名古庵の悲惨な獄死の後は、幕末に至るまでキリシタンの足跡を見ることはできない。しかし長崎で捕えられ、土佐に護送されてきたカトリック夫人信徒が、あらゆる拷問に耐え、棄教しないのを見て、武士道を教えられてきた者たちは感服し、そのようなキリスト教とは一体何か、を考えるのに至ったという。
 坂本龍馬の従兄弟に山本数馬という剣客がおり、武市瑞山(半平太)とも姻戚であった。ある不祥事のため江戸から追放され、函館に逃亡、縁あって神官沢辺家の婿養子となり、名を沢辺琢磨(1833-1912)と改めて神職を継ぐこととなった。
 たまたま当時、函館にギリシャ正教会司祭ニコライが在住していた。尊王攘夷思想のゆえキリスト教を邪教と忌み嫌っていた沢辺は、ニコライを一刀のもとに両断しようと企てたが、悠然と対座したニコライの胆力と気迫に圧倒され、遂には彼を師と仰いで洗礼を受けるに至った。1868(明治元年)、わが国におけるギリシャ正教会最初の信徒であり、また後、最初の司祭となった。
 沢辺は1875(明治8)年、高知に帰り、立志社でキリスト教について演説をしたが、キリシタン禁制の高札撤去後、高知でなされたキリスト教最初の公的発言であったという。直寛がキリスト教に初めて出会ったのもおそらくこの時であろう。
 その後土佐には、板垣退助の斡旋などにより、アメリカの宣教師らが来高してキリスト教伝道と共に政治や学術についても熱心に教えた。やがて1884(明治17)年、本格的土佐伝道が始められ、当代きっての宣教師フルベッキ(1830-1898)、ナックス(1853-1912)ら、また牧師の植松正久らが派遣され、遂に1885(明治18)年5月15日、高知教会が誕生した。
 この教会設立日にナックス宣教師より洗礼を受けた人には、直寛ほか、後の北光社にかかわる片岡健吉、西森拙三ら男7名、女6名であった。また同年暮、のち代議士となり、やがて北海道石狩国樺戸郡月形村浦臼内に「聖園農場」を開拓した武市安哉(1847-1894)らが洗礼を受けた。
 明治もすでに第二期に入り、藩閥政治による自由民権運動への弾圧、運動の衰退の中で、権力主義的、国粋主義的国家体制の強化、右翼の抬頭(たいとう)、さらには東京帝国大学を中心とする化学至上主義がキリスト教に向けて抑圧を加え始めた時代である。
 当時の代表的信徒たちのキリスト教入信の動機を見ると、罪に苦しみ悔い改めることによって救いを見出す、いわゆる福音的キリスト教として受容した場合は少ない。片岡健吉、坂本直寛、武市安哉にしてもキリスト教をもって文明先進国の宗教、すぐれた世界観と見なし、自己のそれと優劣を競って論破せられ、知的に納得、理論的に受け入れ、信ぜざるを得なかった、いわばキリスト教への理論的屈服という側面が強かったようである。直寛は語る、「予はナックス氏と三日程議論せり、予は遂に彼に論破せらるるところとなりければ、従って道を講究することとはなりぬ」、また「予が受洗せしは福音的に神を信ぜしよりも寧ろ理論的に之を信じ、社会的に基督教を受けたればなり」(予が信仰之経歴、下線筆者)。
 自由民権運動とキリスト教とのかかわりは、開明当初から密接で、天賦人権論とキリスト教の人間観のつながりがその理由であろう。そのため直寛らのように自由民権運動からキリスト教に入って運動を質的・理論的に高めた者、キリスト教徒として民権運動に参加した者、なかにはキリスト教を捨てて民権運動家に転身した者、そのタイプは一様ではないが、一般的には、キリスト者は万人平等の聖書的信仰思想を社会的に実現しようとして民権運動に参与した。民権家としての直寛は、その思想的基盤をキリスト教に発見したと言えよう。

坂本南海男の「日本憲法見込案」

201004211421016e3.jpg坂本直寛 壮年期自由民権運動の中で育ち成長し、植木枝盛に少なからぬ思想的影響を及ぼしたと言われる直寛は、植木氏と共に民権家の若手イデオローグとして1880年代の激動期、弁論と言論ををもって世論を啓発しリードした。直寛が同時代の日本国の政治課題、国民的課題をどう受けとめたか、それは彼のすくない著作の中からも明瞭である。1877年から1884年(明治10年―17年)にかけて書かれた論文には、改論、通俗国権論(福沢諭吉)批判、議政の権理、民権家、国会開設請願、自由の擾乱(じょうらん)、共和制論、民権と国権、革命論、減租請願等についての論文(坂本直寛著作集 上・中・ 土居晴夫編)がみられ、自由民権の基礎、国権は民権の保証と伸張のために存することを論証し、共和国政治を志向し、抵抗権と共に革命権に理論的・法的根拠を与えようとするラディカルでういういしい論陣を張った。
とりわけ、植木枝盛の起草した「日本国国憲案」(1881(明治14)年8月下旬)は、坂本南海男(直寛)らの手になる立志社の「日本憲法見込案」(1881年3月)を下地にして書き上げられたものに相違ないと、稲田正次『明治憲法成立史』、色川大吉『自由民権』は指摘しているが、この点は高く評価されねばならない。戦後、日本国憲法が成案となる過程で、鈴木安蔵らの憲法研究会案に採用されたのがこの立志社案と植木枝盛案といわれ、GHQの憲法案に反映されて現行日本国憲法に生かされたので、「この(立志社案)は、日本国憲法の先駆的位置を占める」(稲田正次)と評価された。
植木枝盛の起草した「日本国国憲案」に先立って、抵抗権と革命権を規定した点、直寛は先駆的、先導的思想家と言えよう。龍馬がつねに舞台の背後で演出したように、植木案の陰にかくれて直寛の共和制的民権思想も社会に与えた影響とインパクトは正当な評価を得ていないが、彼の民権思想が共和制を志向し、また明確に抵抗権・革命権を包摂していた事実は、自由民権運動がいかに豊かな可能性・創造性・未来性を持っていたのかを示すもので、ここに直寛の思想の今日的意義と課題があると言えよう。

[PARTⅠ]  北光社創始者 坂本直寛

鞭あげて 野辺はせ行けば黒駒の ひずめが風に 萩が花散る

untitled.bmp壮年時の坂本直寛1896(明治29)年初秋、八月も暮れようとするクンネップ原野(現北見市北光)を龍馬ならぬ、彼の甥坂本直寛が友人と共に駆けて行った。この歌に直寛の思想と理想、すなわち自由・進取・開拓の気性があますことなく美しく、ダイナミックに表現されている。キリスト教徒、また自由民権思想家、運動家としての直寛の理想と夢が、今その実験をまつ広大な自然の処女地に広がってゆく。快活、自由奔放に開拓を目ざしてかけまわる直寛らによって創設を見た「合資会社北光社(資本金9万円)」は、翌1897年5月、最初の移民をクンネップ原野に迎え入れた。
北光社の創設者、坂本直寛とはどのような人物で、どんな思想を持って行動したか、とりわけその宗教思想を手がかりに、北海道の開発と発展に取り組んだ彼の開拓者精神を明らかにしたい。

直寛の幼少年時代

坂本直寛は1853年(嘉永6)年10月5日、土佐国安芸郡安田村に父高松順蔵、母千鶴(龍馬の姉)の次男として生まれた。アメリカ海軍提督ペリーが黒船で浦賀に入港した年である。幼名を習吉といい、9歳にして母と死別、1869(明治2)年17歳のとき伯父坂本権平の養子となり、南海男と改め、さらに23歳のとき直寛と改名した。
 直寛は成長し、自由民権運動の若手のイデオロ―グとなり、政治運動の中でキリスト教に入信、三大事件建白運動で投獄の辛酸をなめたが、それを契機に北海道拓殖事業を興すに至り、ついにはキリスト教の牧師となって1911(明治44)年9月6日、札幌において波らんの59歳の生涯を閉じた。
 彼の宗教・信仰・思想を最も端的かつ詳細に語るのは、その著書「予が信仰之経歴」(前編1895年、後編1909年 教文舘)である。
 父高松順蔵は儒学を修め、終生儒教主義に立って郷里の壮士らを指導したという。直寛は幼少年時代、特に宗教上の教育を受けたことはなかったが、幼くして母を失った薄幸の少年は、家庭で父より君のため、義のために殉ずる儒教的・武士道的中世倫理の尊さを教えられ、キリスト教徒となった後もそれは昇華されていった。キリスト教禁教時代ながら彼の父はひそかに漢訳聖書を入手し、時折読んで「これ聖人の書也」と言ったが、聖書の話、とくにキリストのことにふれなかった。
 直寛は自分の青年時代と宗教に対する感想について、次のように語る。
「予漸く長ずるに及び英学を志し、県立学校に入り、後東京に遊学し又帰って立志社(土佐自由党の政治結社)の学校に入り、専らミル・スペンサー等の書を講究せり。而して予は立志社員にして頻りに自由民権を唱道し、又好んで無神説を唱へたり。当時予の感想は即ち右の如くなりき。『宗教を以て国を建てんとするが如きは実に至愚の事なり、宜しく哲学を以て国家の原則と為すべし』」(予が信仰之経歴、下線 筆者)。 
 彼は宗教に対して冷淡かつ批判的、否定的で、無神論を誇りさえした。しからばその後禁教の高札が撤去されたとはいえ、三百年の長きにわたり邪教とされ禁じられていたキリスト教をどうして受容するに至ったのか。

著者プロフィール

小池 創造 (こいけ そうぞう)

1931年長野生まれ。青山学院大学文学部神学科卒業。
1957年~1991年 日本キリスト教会北見教会牧師。
アメリカ、ドイツ等に留学、協力牧師をつとめる。
1995年から日本キリスト教会南浦和教会牧師として現在に至る。

主な著書
「暁に翼をひろげ」
「坂本直寛の宗教思想と北海道開拓」(『北見市史上巻』)
「坂本直寛の自由民権思想とキリスト教」(坂本直寛と北光社『自由民権百年北見実行委員会』より)
訳書
G.P.ピアソン『六月の北見路』、同『キリストの十字架』
シュラッタ―『ローマ人への手紙』他多数。

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