坂本直寛の 自由民権思想とキリスト教

HOME > 「北光社設立と推移」~北見市史より(昭和56年発行)

先のシリーズ、小池創造氏著の『坂本直寛の自由民権思想とキリスト教』と時を同じくし、発行された北海道オホーツク管内、北見市が編纂した「北見市史 上巻」に坂本直寛に関する記述が百ページ強あります。本シリーズは北見市のご了解を頂き、「北光社設立と推移」を市史より抜粋し連載して参ります。ご期待ください。

北光社設立と推移

第三十〇話

注 武内班記念碑
 明治三十年五月、北光社移民団の武内班が入地した区域は、北光社農場の南西部に当たり、上常呂西十一号から百十四号の間に渉っている。当初入植した移民は、永い年月の間に次々と姿を消し、今尚営農に精進している家は僅少となってしまった。しかし、この人達こそ上常呂地区農業の生きた柱であり推進力そのものであった。
 だが、ここに至る迄の苦闘は言語を絶したものであっただけに、永遠にその思い出を残そうとする意志が昇華して、昭和五十三年十二月残された遺族達によって、道道北見置戸線、西十一号お付近に武内班記念碑が建設されたのである。

碑   文
 高知県人百戸、六百五十余名は高洋丸七百二十噸に乗船、高知市浦戸港を出港する。時に明治三十年四月三日。次第に遠ざかる故さとの山なみを互いに断腸の思いで見納める。これより関門海峡を経て北海道へと一路日本海を北上する。出港以来十六日の航海を続け北端稚内港へ着く。これより網走港へと南下するが、オホーツク海特有の流氷に阻まれて航行不能となり稚内まで引返す。三度目にして漸く待望の網走に入港する。郷里を出てより実に二十八日間、北見の国へ第一歩を印したのは五月一日であった。この間麻疹患者が発生、之が船内に伝染し子供三人死亡、更に大人迄が死亡するに至る。親兄弟、知友にわかれ、墳墓の地を離れ、断腸の思いの消えやらぬ間に、早くも永別する同志の臨終、可憐な幼児の死を目前にして、一行の志気、亦、くじけざるを得なかった。網走上陸後、移民取扱所で二日間休養、直に野付牛に向って出発。五月六日夕刻、北光社本部へ辿り着く。夢にまで描いた新天地。現実の厳しさに不安がつのるのも無理からぬものがあった。五月八日、それぞれの土地に入植、斯くして北見市に漸く開拓の鍬がおろされた。千古斧を入れざる原始林は、昼なお暗く、いたずらに羆咆哮して、背丈を没する原野は、鹿、狐の跳梁するところ、音するものは、常呂川の瀬音のみであった。夜ともなれば、梟の啼き声樹間にこだまして、荒涼とも寂寞とも言いようもない孤独さをおぼえる。かかる環境の中で、鍬、鋸、鎌を唯一の頼りに、我が身を挺して原始林にいどむ血と汗による苦難と窮乏の闘いが幾度となく繰り返えされて八十有余年、此処に沢土馥郁たる郷土が建設された。又父母より聞かされし昔話は今なお脳裡に深く、瞑想にふけると何時でも遠い昔へと帰っていく。
 ここに先人の残された足跡は、何物にも替え難く尊く大切なものであり、此の偉大なる業績を後世に伝えるとともにその不撓不屈の精神を心として受継ぎ、平和な郷土の礎を築かれた先人に深甚なる感謝の意を捧げ、開道百十年、北見市開基八十三年を記念して、その偉業と気高き開拓精神を永久に讃え、上常呂入植之地茲に開拓の碑を建立する。

明治三十年五月八日 北光社武ノ内班 入植者名
 安岡亀次 伊藤亀之進 安岡保吉 森田正寿 篠崎馬之助 戸田善次 戸田藤吾 篠崎次郎右衛門 
森田稲美 嶋村令政 西内新次 都築鶴太郎 伊藤弘裕 別役銀吾 伊藤今之助 田中寿兄 小松作蔵
野町兼太郎 戸田安太郎 橋田太七

 各班の地積に比例して、区画も最低片岡班の三三区画、最高由比班の五一区画となっている。一区画は一戸分五町歩であるが、現実の区画割は一戸分の二分の一乃至三分の一のものもあるので、各班の総地積は一区画五町歩とする正規の総数とは一致しない。総区画二七八区画が完全に五町歩であった場合、一三九〇町となるはずであるが、実際には一一九一町でしかなく、その差一九九町分正規でない区画があることを示している。これは主として地形による制約から生じたものであった。

        区画   正規よりの減
   片岡   33    25町
   西原   35    15町
   傍士   34    13町
   大脇   39    28町
   由比   51    47町
   武内   44    35町
   小嶋   42    36町
    計  278   199町



以上三十話をもちまして、「北見市史」よりの「北光社設立と推移」の連載を終了させて頂きます。
北見市の皆様、ありがとうございました。次号もまたご期待下さい。

第二十九話

規模
 現地踏査を終え帰国した沢本楠弥等の報告に基づき、同志岡本健吉・傍土定治・西原清東・大脇順若・由比直枝・武内羊之助・小嶋安馬・坂本直寛等と協議の結果、合資組織の北光社組合を結成し、北海道に大農場を開設することを計画した。

同志は
 片岡(代議士 明治三十一年~三十六年衆院議長)
 由比(銀行頭取)
 大脇(銀行頭取)
 坂本(当時土陽新聞主筆)
 傍士(代議士)
 西原(代議士)
 小嶋(   )
 武内(当時教員)
というような、それぞれ高知県下における著名な人物であった。
 農場を3ヶ所に設定した。すなわち、
第一農場 クンネップ原野 五六七万坪(1890町)
      (現北見市―豊地、北光、北上、上常呂、常川の一部)
第二農場 野花南 五一万坪(170町)
      (現芦別市―野花南)
第三農場 クンネップ原野 三〇〇万坪(1000町)
     (現訓子府町―東部地区)
   計 九一八万坪(3060町)
である。このうち第二農場は、高知出身の武市安哉所有地を明治二十九年(1896)1710円で譲り受け、第三農場は、最終的に出願のみで終っている。したがって、第一農場が北光社組合の最重点であった。第一農場・第三農場貸下はこの頃制定され、北海道国有未開地処分法の適用を受けた。

  北海道国有未開地処分法(旧法)
 従来土地の処分は、明治十九年六月発布の北海道土地払下規則により、一人に付十万坪を限度として貸下げ、成功の後これを有償にて払い下げる制度であったが、これでは本道の開拓はなかなか進まない。そこで当局は、開拓の急速を期するため、大資本と大労力とを招来する必要を痛感し、明治三十年三月を以て、北海道国有未開地処分法(旧法)を制定し、開墾・牧畜・若しくは植樹に供せんとする土地は無償にて付与する制度に改めた。その処分面積も、勅令を以て開墾に供する土地は一人に対し百五十万坪(五百町歩)、牧畜に供する土地は二百五十万坪(八百三十三町歩余)、植樹に関する土地は二百万坪(六百六十六町歩余)を限度とし、会社または組合に対しては、上地積の二倍までを貸付し得る事と定めたのであるから、実に思い切った大地積の処分であった。
 同年四月、拓務省令第三号を以って、北海道移住民規則を定めたが、この法にもとずき、この月庁令第二十四号中特別待遇措置として二〇戸以上の小作人が移住する場合、貸付地予定存置ができるようになった。要するに予定存置とは、一つの団体を組織として北海道移住をしようとする団体に対しての優遇措置であり、無償貸付する土地を道庁で予定しておき、移住者が来着する時は直ちにその土地を貸付する制度で、この特典は自作的小農移民のみに限らず、小作制による農場主にも与えられた。北光社の場合もこの適用を受けたのである。

 第一農場の最終出願は前記の規模から大幅に縮小したものであった。土質や地形の状況、特に河跡の残留礫が多いところや湿地帯を削減し、またその他将来不利と思われるところを極力避けた結果、計画では五六七万坪(1890町)であった総地積は三五八万二五九六坪(一一九四町一反九畝二六歩)と約二〇九万坪(六九七町)の削減であった。これは当初の計画に対して約六三%に当たる。それだけ慎重な選択をしたといえよう。
正式出願は七名の名儀でなされたので、その名儀人の姓を冠した七つの班に分れて貸付許可がなされた。名儀人の七名は前記北光社組合設立の同志中、前田直寛と沢本楠弥を除いた直接の投資家達である。一方前田と沢本は現地の責任者として、総会でそれぞれの役割が課せられることとなった。七班は土質・地形上の関係から同一地積ではなく、最低片岡班の四二万坪、最高由比班の六二万坪と差異がある。この差異は投資額の大小によるものか不明である。

  北光社貸付区画地番号表(以下地番省略)
 片岡班   三十三区画   地積計 四二二四〇三坪(一四〇町八反三歩)
 西原班   三十五区画   地積計 四八二四一二坪(一六〇町八反一二歩)
 傍士班   三十四区画   地積計 四七一九六三坪(一五七町三反二畝三歩)
 大脇班   三十九区画   地積計 五〇〇八一一坪(一六六町九反三畝二一歩)
 由比班   五十一区画   地積計 六二四八〇五坪(二〇八町二反六畝二五歩)
 武内班   四十四区画   地積計 五五七四二一坪(一八五町八反二一歩)
 小嶋班   四十二区画   地積計 五二二七八一坪(一七四町二反六畝一歩)
               地積計 三五八二五九六坪(一一九四町一反九畝二六歩)
 大谷農場  二十三区画   地積計 二七九五三四坪(九三町一反七畝二四歩)

つづく。

第二十八話

キリストの教の伝道者へ

 坂本の講演やや論文によって明らかになった点は、要するに北海道の拓殖事業の成功、あるいは移民の発達進歩は物的・経済的繁栄をまず達成することではなく、高潔・勤勉・尊節・忍耐・豪毅等の諸徳と品性を生み出すこと、そしてそれを養い育てるところの敬神・言いかえると、神信仰・正直・真面目・良風俗・善き習慣・正義を愛する人心を造り出す倫理的特質、道義的精神、すなわち「的人志〔エートス〕を養成、発達せしめること、これこそ北海道の発達の根源的推進力であり、基本的要因であるという。
 彼が晩年、明治三十七年(1904)、五十二歳にして牧師となり、旭川を中心に北米長老派宣教師G・P・ピアソン夫妻と共に、軍人伝道・廃娼運動・十勝監獄伝道に挺身し、さらに北海道全域にとどまらず、朝鮮の竜山にまで伝道の足を伸ばしたまた彼が創設した北光社の地北見に、彼の没後ではあるが、遊郭設置運動の激しい時、ついにその阻止に成功し得たのも坂本直寛およびキリスト教徒の北海道発達に対する志と理想の具体的現象の一つと言えないであろうか。もちろん北見での廃娼運動の中心的推進者がピアソン宣教師夫妻であったとはいえ。
 一部の人が評するように、同じ思想と理想を持った聖園農場や北光社開拓農場の創設は政治の現実に失望し、民権運動に挫折した土佐のキリスト教徒が北海道の拓殖事業に転向したという説は、彼のこの講演を初め、諸論文からは到底見い出し承認しえない説である。彼の目標と姿勢、その思想と使命の中にはいささかも敗北的・逃避的な陰も言葉も見えない。そればかりか、新天地北海道にキリストの光を輝かさんとする希望と方向が「北光社」の社名及びその規則にもみなぎっており、何よりも彼自身の生涯の歩みと行動がそれを証している。たしかに自由民権運動の敗退・挫折後であり、後の思想の中に国権論が台頭してきており、「北門の」たる北海道の防衛と拓殖の急務であったことも、坂本の北光社創建の動機・理由の一つとなりえたであろう。
 しかし彼が志向し、その目的のために心血を注いだのは、理想的民主主義国家・すなわち義を高くするところの国家を形成し、神を畏れることを幸福の源とする国民を形成すること、それによって神の栄光をこの地に現わさんことに外ならなかった。
 坂本直寛の同士であり、共に自由民権運動に挺身し、共に同じキリスト教信仰に同時に入信し、共に北海道拓殖事業に直接関わった片岡健吉が晩年、政治の現状にあきたらず、むしろキリスト教の伝道に力を入れ、信仰に打ち込んだり、「民権運動の理論的指導者ともいうべき人でさえ遊郭に通う。・・・・結論は人間の改革にある。
それはキリスト教を信ずることなしには不可能である」と唱えて、北海道開拓にその情熱とエネルギーを注いで斃れた武市安哉の思想と行動とその軌を一にしていたと言えよう。遂に坂本がキリスト教の牧師になって、その使命実現のため直接伝道に当たったのはけだし必然の帰結でありその象徴というべきではなかろうか。

(付記 前稿を起こすに当たり、次の文献を参照とした)
多田素・吉田満穂著 「牧会百話 付・ある使徒」(日本基督教団高知教会)
土居晴夫著 「北光社移住史新考」(土佐史談 復刊39号)外
拙稿 「北光社の設立をめぐる人々と坂本直寛―その思想と行動」(北見文芸第二号補遺)「坂本直寛の
   「北海道の発達」について」(北方文芸 第72号) 「坂本直寛の自由民権思想―北海道開拓との関連において」
   (福音と世界 ‘81年9月号)

つづく

第二十七話

さらに、坂本の最も強く、また高く叫び、それこそ北海道発達の条件としてその成功に欠くことのできない要因として訴えた点は、殖民地と宗教の関係であった。宗教による殖民並びに殖民地を聖化すること、このことこそ坂本の祈りであり、心血を注いで取り組もうとした課題にほかならない。彼が同志片岡健吉に宛てた書翰で「彼の地に拓殖の事業を設計し、将来日本社会に一つの潔き義に生きる神の国を作り度存候」と書き送り、「北海道に拓殖事業を興さんとする意見」という論文の前書きにおいて、「小生は伝道と教育を以って将来聖村を建設する考へに有之候」と述べているのも、その目的を実現を計らんとする志の表われであった。
 宗教は本国と殖民地とを問わず、人間にとって必要欠くべからざる生命の泉であり、真理の道である。とくに殖民地たるものは、新開の土地であるため社会的制裁力を欠くため、一度風紀が乱れると、その醜態と混乱は故国や内地においても未だかって見ざるほど甚しい。ハワイにおける日本人移民の中に見られた風俗の壊乱の如きは、そのよき実例であり、また北海道沿岸の村落に見られる風俗の堕落は目を覆うほどであると、彼は慨嘆する。
 「これに反して英国教会のオーストラリアにおける感化力、ウィリアムペンの建設した北米ペンシルバニアにおけるキリスト教の力の偉大であることを思え。殖民地の品格、風格の自然に高まったのは教会の大いなる力によるためであり、敬神の念と博愛の至情をもって開拓移住民の唯一の方針としたためである。人は品格を要す。品格は自治の精神より来る。自治の精神なくば村落の品格なし。要するに人は正直でなければならず、また真面目でなくてはいけない。殖民地にしていわゆる小作主義をとり、地主のみ多くもうけて、小作の利不利を顧みないようでは、自治の精神人心に吹き込むことは不可能である。もちろん困難はある。しかし北海道の将来のよき発達と進歩を願うならば、これらの悪弊を取り除き、小作人ではなく、小地主として少なくとも小土地を与え、もって自治独立の人とさせなくてはならない」と説いたのである。
 坂本直寛らが北海道に拓殖事業を企図した時、その第一の目的としたことは、殖民地をして高潔・勤勉・尊節・忍耐・豪毅の諸徳性を養成し、もって北海道に模範的殖民地を建設することであった。そしてこの諸徳のうち敬神、すなわち神を畏れ、神を愛する信仰こそ、これらの諸徳を生み出し、育て養う母であり、生存の源泉である。
そして博愛はこれらの諸徳を結ぶ帯である。
 彼は「北海道に拓殖事業を興さんとする意見」の結語を次のように結んでいる。
 「我北海道は所謂「北門の」なり。之が殖民たるものまた宜しく平生期する所莫かるべからず。況んや今日歐米諸強国が東亜に権力を振るわんとして互いに攻略を画しつつある時勢なるをや。且つ北海道の地たる所謂新開の殖民地たるが故に、茲に善良なる習慣を作ること極めて肝要なり。若しそれる土地に於て最初に悪風俗を作らんか其将来推て知るべき也。今日同地に於ける社会の状態は既に嘆息に堪へざるものあり。若し今にして厳粛・勤勉・高潔なる良風俗を興し、現に流行する所の飲酒・博奕・風儀壊乱の悪弊に反対する殖民地を建設し、自ら治めて国民自治の基を開くに非れば、北海道の将来は甚だ憂べく歎ずべきの状態に陥るの恐ある也。是故に模範的の殖民地を設置して良村落を建設し、以て他の植民地を感化する実に方今の急務と云ふべし。是れ余等が北海道に拓殖の事業を経営する理想にしてまた目的たる也」。
 またこの講演の結語において、坂本は次のような重要な発言をもって閉じているが、注目すべきである。
「エホバを己が神とする民は幸なり」〔詩編144篇15節〕、「義は国を高くし、罪は民を恥かしむ。」〔間箴言14章34節〕
「罪は不義を意味す、今日に北海道の有様を見れば特に宗教的道徳の修練を要す。清教徒の如き心志か宗教によらずんば得べからず、今日の如き切迫の時代に於ては清教的の正義なる人心を要す。我邦人茲に注意して此の精神を養成発達せしずして可ならんや」。

つづく

第二十六話

北海道の発達

坂本直寛は、まずこの講演の開口一番、日清戦争後、北海道の拓殖・開発が叫ばれながらその実効があがらず、また北海道の発達進歩をいかにすべきかについて、政府も民間も漠然として一定不変確固たる意見も政策もなく、その無定見と無策ぶりを指摘した。そしてそのまま果たして北海道は健全な発展を遂げうるか否か疑問であると批判する。
 多くの人が北海道拓殖につき意見を述べ、アドバイスを示唆するが、一つとして坂本を納得させ、満足させる殖民政策を提示する人はいなかった。彼らは言う、「小作人を寛大に取り扱ってはいけない。これを牛馬のごとく使役して疲労させよ。逃亡を防ぐため前金を渡すな」と。
 それは当時の地主による開拓農場の実態であり、土地を小作人に与える地主は甚だ稀であった。このような状態で果たして北海道をして「北門の」(戸締り・砦)たらしむることが可能か。さらに海岸漁村的生活をもって真に健全・健康な良民を造ることが可能か。坂本はこのような疑問をいだきながら、北海道のこの悲しむべき現状を見て慨嘆し失望を禁じえなかった。
 彼が理想とし使命とさえ感じた北海道の拓殖事業は、これをヨーロッパの新殖民地において実現された理想と精神に基づいてなされなくてはならない。坂本は出版後間もない英書 Edward J.Tayne:History of European colonies 1889 をき、ヨーロッパの殖民史の中から次の点を指摘しつつ語る、「新世界に通じて得たる処の富の蓄積は正直なる個人的企業に由て得られたるものなり」。
 とりわけ英国の殖民地が、過去三世紀にわたって他の諸国の殖民地に急進的に発達・進歩した要因は次の四つの事実にあったことを挙げ、北海道の発達も全くこの原則と精神に基づいてなされるときにのみ、その目的と意義を達成かつ成功できると主張した。
 第一  殖民地は必ず労働の場所たるべくして、決して游惰なる場所たらざる事。
 第二  殖民地の繁栄は多忙なる個人の思想と労働との任務にありて、決して遠隔よりの力によりて機関を使うが如きものにあらざる事。
 第三  殖民地は或る行為の自由無くして干渉によりては発展せざる事。
 第四  殖民地は殖民の品行高潔なるに非れば決して盛大を期する能わざる事。
 そこでもし北海道を健全に発展・進歩させようと願うなら、すべからくこの原則と精神をふみはずしてはならない。果たして北海道に今、この正直な勤労・労働が見られるか。北海道がまず迎え入れた殖民はほとんど山師的人物か、多くは内地の失敗者であって、一片の道義心もなく、私利私欲を肥やそうと狙う俗物ばかりではないか。
 また北海道は干渉や遠隔操作によって発達すべきものでなく、あくまで開拓者の自由、自主独立によらねば、真に健全な発展は望めない。道庁設立以来、移住開拓あるいは殖産を発展、進歩せしめるという理由で拓植民に土地を与え、あるいは官金で家屋を建て、補助金を与えて事業を助けることにより、むしろ政府に対する北海道民の独立心は萎びし、かえって道民の依頼心、反独立心はいよいよつのりつつある。政府の干渉によって果たして実効ある健康な拓殖事業の成功したためしがあるか。甚だしきに至っては、国庫金をもって青楼(遊郭)を建てた者もあるが、かようなことは言語道断であるとの手をゆるめない。
 ヨーロッパ諸国が開拓した殖民地の場合も、本国政府の干渉や口出しのあったラテン国民の殖民政策が失敗に終わったことを挙げ、自治の方針を採用して成功した英国殖民地に学ぶべきである。北海道開発も政府の干渉を受けず、また政府に依頼することがあってはならない。これからの北海道人は、大いに自治精神を養成し、独立自由を確保せねばならないと訴える。
 続けて、国家は個人をもって成立するものであるから、その分子たる個人が不健全であると、その全体も不健全となる。個々の人民に自治独立の精神がなければその国家たる独立は望み得ない。ロシア・フランス・ドイツの三国同盟の干渉の中で、とりわけロシアの図南野心と策動の激しい時、「北門の鎖鑰」たる要地に位する北海道人士は、独立自治の精神を涵養し、時に臨んで内地〔本州〕に依頼、依存せざるようにすべきであると、大胆な提案さえ試みている。

つづく

第二十五話

 この講演の要旨を紹介するに先だち、当時の背景を見ておきたい。坂本直寛が拓殖事業の思想を最初にいだいたのは、すでに述べたように、三大事件建白運動のため明治二十年(1887)十二月、保安条例によって逮捕・東京石川島監獄に投獄され、差し入れられた聖書の中で、「人はパンのみにて生きる者に非ず、人はエホバの口より出る道〔言葉〕によりて生きる者なり」(旧約聖書申命記八章三節)との聖句にふれ、霊感の如く注入された時に始まるという。そしてもし将来・神ゆるしたもうなら、神によるある事業を試みんと希望と理想を強く抱き、出獄後もたえず祈りのうちにそれを覚え忘れることがなかった。
 当時日本において「東洋の危機」論、「人口過剰」論が叫ばれ、明治二十五年(1892)、自由党総裁板垣退助も「殖民論」を書き、日本はやがて人口過剰になるから、今のうちに早く殖民をさかんにし、たとい人口過剰にならずとも、世界列強はことごとくみな盛んに殖民をしているので、日本もおくれをとってはならない。特にわが国が東洋に独立し富強の各国に伍しその勢力を競うには、海権と商権とをもたねばならないと論じた。翌明治二十六年(1893)には、子爵榎本武揚〔後松方内閣外相〕を会長とする「殖民協会」が設立を見、多くの資本家がこれに加入した。
 これらの「殖民」論は1890年以来の「社会問題」の発現に対応するものであることは明白である。ちなみに、坂本がこの講演をした第二回夏期講話会において、札幌農学校教授新渡戸稲造が「社会党の話」と題して講演し、事実その翌年明治三十年(1897)、日本にキリスト教社会主義が起こるのもこうした事情を反映しているものと思われる。
 坂本直寛が板垣らの殖民論の思想や内容にどれだけ同意したかは定かにはできないが、初め榎本武揚や安藤太郎らの計画していたメキシコ殖民に参加する志を抱いていたようである。しかし時局は日清戦争の直後であり、ロシアの図南の動きがあわただしく、それを阻止する国家的要請も手伝って、北海道拓殖こそ焦眉の急務であると判断し、北方脅威論に対する「北門の」としての北海道開発にふみきることを決意し、メキシコ移民の案は断念した。そして同志者より嘱託を受け明治二十九年(1896)拓殖調査のため札幌を訪れるに至ったのである。

つづく

第二十四話

坂本家と北海道

さて坂本直寛と北海道との関係は、遠く幕末から王政復古の明治維新に向けて活動した叔父竜馬、その従兄弟沢辺琢磨(旧姓山本数馬)にまで遡ることができ、さらに直寛の兄高松太郎(坂本直)辿ることができよう。竜馬は北海道の資源開発を計画したり、京摂の浪士を移住させることを考えていたらしい。国内戦で人材を失うことを避け、有志を北海道に移し、開拓に従事させ、将来のため海軍生をそこで養成したいとの計画を密かに練っていたようである。
 沢辺琢磨は不祥事のため北海道に逃亡、函館でいみじくもギリシャ正教会司祭ニコライを知り、志に反し自ら献身して司祭になり、日本におけるギリシャ正教会[ハリストス]設立に貢献した。明治八年(1875)、沢辺琢磨は故郷高知を訪れ、立志学舎でキリスト教を説いた。これは高知県下で、キリシタン禁制の高札が撤去された後、初めて説かれたキリスト教伝道と言われ、坂本直寛がキリストに接したのもむろんこの時が初めてで、彼の二十二歳の時であった。
 叔父竜馬の跡継となった兄、坂本直は、竜馬の命を受け蝦夷地との物資の交流計画の実現に奔走したことがあった。後に北海道開拓使権判事となったが罷免せられた。理由の一つは、彼がキリスト教徒であったためとも言われる。
 北海道と坂本一族の関係について、「竜馬の『北海道開発計画』は、ついに実現できなかったが、竜馬の養嗣となった高松太郎(坂本直)開拓使判事となったし、一族坂本直寛は『北光社』を創立して開拓移住をこころみたが、竜馬の執念といえそうだ」と平尾道雄氏は述べている。けだし適切な指摘と言えよう。
 さて、上の講演は、前述の二つの論文とともに、坂本直寛が多くの移民を入植せしめた北光社の開拓、殖民の思想と理想、目的と使命を最も顕著かつ克明に述べたものである。その他彼の北海道拓殖事業の動機と思想を直接伝える文献として忘れてはならないのは前掲の同志片岡健吉宛の書翰(明治三十年(1897)二月八日)と彼の著書、「予が信仰之経歴」明治四十二年(1909)中の「予が拓殖事業を発起したる元由」の二つを挙げることができる。
 前述した「北光社設立の経緯と坂本直寛」において、坂本らが企画結社した合資会社北光社の起源と成立の事情が究められ、彼らが国家的背景も援助もなく、独立と自由に基づく自治的・民主的・理想的国家の形成と確率を目ざし、北光社農場という小さなキリスト教的・自由民権的聖村(坂本の言い回しによると、潔き義に生きる神の国)建設によってその志を実現しようとしていたことが明らかにされた。
 当時の政府が、天皇制下に明治の絶対主義的かつ中央集権的国家体制の形成と確率を目ざし、そのもとで編成された資本家・大地主・華族による大土地所有に基づく殖民開拓や屯田兵制による開拓団に対して、北光社の開拓は質的にも内容的にも著しく異なった国家イメージとその形成を試行していた事実を証拠立て裏付けたのが、これらの諸論文である。

第二十三話

坂本直寛の「北海道の発達」移民論

昭和四十七年(1972)、北海道大学附属図書館内にある「記念文庫 佐藤昌介」の一冊、「第弐回夏期講話会報告 明治廿九年九月」が発見され、その中に坂本直寛の講演「北海道の発達」が収録されている。これは坂本が翌年社長として指導した合資会社北光社の設立の動機と理由、思想と理想、目的と使命を具体的に理解し解明するための不可欠、かつ確定的資料の一つと言えよう。この講演は、彼の「海外移民論」[未発表、明治二十八年(1895)日清戦争直後の頃のものと思われる]、並びに明治三十年(1897)一月、福音新報(第八十三号)に投稿した論文「北海道に拓殖事業を興さんとする意見」と合わせて文献的価値が高い文書である。
 夏期講話会は明治二十八年(1895)に創立され、「毎年夏期に際し内外朝野の名家を聘して学芸・社会・宗教に関する有益なる講筵を請ひ以て公衆の常識を高むるに在り」とその主旨を謳っている。
 第二回夏期講話会は明治二十九年(1896)八月十日より十六日まで一週間、北海禁酒倶楽部を会場として開催された。八月十一日、博士ハルツホルン氏が「最善の宗教とは何か」と題し、次に坂本直寛は「北海道の発達」と題して北海道植民論について講演した。聴衆は二百名をこえて満員となり、入場拒絶の掲示を出すほど盛会であった。

つづく

第二十二話

三十日午後六時、沢本[楠弥]氏移民を卒ひて網走に着す。此船も亦頗る困難を極めたり。此船は二十日に稚内に来りたれども氷の為に東行する能はず、宗谷崎を東西すること七回に及び、漸く氷をくぐりて到着することを得たり。然るに、此移民ら長途の疲労もあり、且つ麻疹患者船中にありしが為に其伝染する所と成り、患者頗る多く小児の死する者相続て起り來りぬ。是故に移民等は直に農場へ行く能はず、網走に滞在するの止を得ざるに至りたれば、予は時々彼らを訪問し患者の枕辺に立て祈祷を為せり。此患者の中には頗る気の毒なる者あり。即親子三人同時に疾み母乳を失ひて病兒饑に泣く者あり、又病母赤子を抱て痛苦する者あり。一家数児死して全く小児を失ひたる者あり。五月五日に至り、予ら先づ健康なる移民をして農場に入らしめ、残る病者らは別に一倉庫を借り受けて之に移らしめたり。六日、予ら同地を馬にて立出で北光社の農場に至る。網走を隔る十三里の山間に在り。予ら至りて見れば米麥甚だ乏しくして、続ひて入り來る所の移民を支る能はず。雨蕭々たり。此日移民百名ばかり入り來る。予等は馬車を以て二號駅迄米麥を取りに遣はしめたり。然ども生憎同地に馬無くして多くの荷物を運び來る能はず、唯僅に四俵の米のみ持歸れり。此僅少の食物にて如何に大数の人口を養ふことを得んや。且つ、移民の小屋多くは雨漏る所あり、未だ出來上らざる小屋三十戸ばかりもありて、為に大に困難を極めたり。是より先き、移民の荷物は輕舟にて常呂川を上せんとの計画なりしが、是れ全く失敗に終わりたれば荷物は一切馬背にて運搬せざるべからず。然るに、北海道の道路の常として雨降りたれば忽ち深泥を起すが故に運搬極めて困難なるを以て、馬丁らは我らが望む如く運搬し來らず。加之隣地に屯田兵の家族多く入り來る者ありしを以て、荷物多くして駄馬益々乏しく成り、為に大に屡々困難を感ずることありき。斯の如く運搬不便なるよりして、移民の農具必要物味噌の運搬など屡々延滞して速かに來ず、剰へ隅々運搬の為に集めたる馬群は夜中熊の襲撃を蒙りて四方に散らさるる所と成り、移民らは手を空して開墾すること能はざる者も少からざりき。
 移民の着場せし後も麻疹の勢猶衰へず、小児の死する者多くして總数三十五名を下らず、為に知らざる土地に來りて、特に家庭の団欒の必要なる場合に於て小兒を失ひて一家沮喪せる者少なからざるに至れり、又十九日と廿四日の両日には大なる野火二ヶ所に起るありて、予ら人々と共に出て消防す。小屋の焼る者八戸に及べり。右に述し如く、運搬の不便なる為に、特に雨降れば忽に食物荷物來らずして屡々移民をして饑へしめんとする憂あり。予は毎朝早く起て先づ天気を窺ひたり。若夫天気悪くして食物來らざる時は、予は切に神に祈りぬ。而して一両日間の食物を得るに至れり。又馬鈴薯の種を取り寄るが如きも頗る困難を極めたり。そは下常呂より路無き山国を通じて馬背にて僅少づつ種芋を運搬し來るの止を得ざればなり。断へず祈るべし、とは予らが聖書に見る所なり。然ども予は今回の如く断へず祈るべし、とは予らが聖書に見る所なり。然ども予は今回の如く断へず祈りしことはあらざりき。以右に述たる如く、萬事不便なると困難なるとに由り、予は独り小屋に在る時も農場を巡回する時も旅行の時も徒歩の時も乗馬の時も朝も夕も常に祈祷を為したり。時としては日々毎時祈祷することありきは、祈祷を以て日を暮せりと云ふも過言に非りき。
 漸くして移民の病気も消滅し、開墾も漸く運び播種も終り萬事平穏に歸したれば、予は八月廿七日事務員及び其家族らと共に原野を出発し、歸途空知の農場[ノカナン(野花南)北光社第二農場]を訪問し、又武市農場[聖園農場]に数日滞在して、歸途所々に説教を為しつつ十月二日平安に高知に歸ることを得たり。予らが歸縣したるは、翌年の移民募集の為め且つ予が家族を纏めて來春渡北せんがためなりき」

 以上坂本の「予が北征及び移民の困難」は貴重な資料には違いないが、ただ残念なことは、彼の著述の中にも北海道側の文献にも移民の男女別、大人、子供の総数が記録されていないことである。池田七郎氏が「開拓の頃」と大した講演中で「明治三十年五月七日―九日・北光者移民百戸、同月七日―十日に三百戸と市街地に三十戸と入った」とあるが、坂本やその他の文献に比して著しく膨大な数字であり、何を根拠としているのだろうか。
 入植時の困難、苦しみ、悲しみ、孤独と失望はもとより、入植後にも衰えぬ病魔、苦難、冷害、水害、逃亡者の続出、こうした患難は筆舌に尽くし難い。その経験と実相は、忍耐をもって苦闘し戦い抜いた開拓者のみの体験と記録に語らせるべきものであろう。
 ただし北見市史(昭和三十二年刊)も伝えるごとく「北光社の幹部はキリスト教徒であり、移住すると同時に草葺の小屋を作り礼拝をした」という記録や、移民が初めてクンネップ原野に打ち下ろした鍬が開墾のための喜びと希望を託した鍬ではなく、愛児や親しき者を葬る悲しみと涙の鍬であったと語る古老たちの思い出は忘れてはならないであろう。この悲しみと涙の大地の上にこそ、今日の北見は育ち成長しているからである。

                                 つづく

第二十一話

北光社移民の困難

最後に、北光社移民団の最初の一団が、土佐浦戸港を出帆してから、網走に到着し、北光社の開拓農場に入地した時のいきさつについてふれておきたい。この点も北海道の文献や北見市史(昭和三十二年刊)には諸説が混って統一されていない。いちいち引用はさけるが、坂本の著書の記述と著しい相違が見られ、また彼の記述は北見においてはあまり知られていないので、これも長くなるが原文のままここにとどめたい。
坂本は前掲の「予が信仰之経歴」続編第五「予が北征及び移民の困難」を日記風に次のように語る。

「明治三十年[(1897)]三月五日の夜は、予ら北征の前夜なるを以て、予は家族を集め特別に祈祷会を開きぬ。翌日午前三時、予は起て神に祈を献げ、六時、妻(現今の[鹿])と甥とに送られて孕門に到り、土佐丸に乗じて須崎港に航せり、盖し、久保丸と云ふ汽船移民搭載の為に同港に来る筈なるを以てなり。然るに、船は風の為に来らず、漸く十一日に到りて着船せり。予は二人の事務員と共に空地行[ノカナン、北光社第二農場]の移民を卒ひて午後二時同港を出帆し、十二日午前六時半徳島に着、是地に於ても同地の移民の北海道に行く者を積めり。十四日午前十時、予ら同地の聖公会に至り礼拝に列す。
(中略)
 十七日午前六時門司港に着。予ら馬関に渡り金波楼に投宿す。同夜此地の教会の祈祷会に出席して一片の勧話を為せり。
(中略)
 廿一日能登半島を右に見て過ぐ。廿三日午前二時浪の為に北進する能はずして函館に船を寄す。午後二時同港出帆するや船浅瀬に乗り上げたり。然ども漸くにして浮ぶを得て船を進む。廿四日午後十一時小樽港に着。一同無事なりき感謝の祈祷を為す。廿五日午前十二時過上陸、廿六日午前空知行の移民を汽車に乗せ出発せしむ。予は札幌に所用ありて止まる。廿八日は聖日なれば、予は札幌日本基督教会に出席して説教を為せり。丗一日午前八時五十分、室蘭行の列車に乗じ、同夜十一時同港出帆、函館に向ふ。盖し、當時は函館より北見に行く船ありて、小樽よりは便船無ければなり。四月四日は聖日なれば、午前同地の函館日本基督教会に於て、礼拝し、同夜説教せり。五日午後七時、伊吹丸と云ふ汽船同地を出帆するあり。予ら二人の事務員と共に同船に乗り込み、出帆するや間もなく機関に損所を生じ港口に淀泊し、六日午前五時再び港内に帰泊す。午後六時半出帆、七日午前七時八ノ戸に着す。盖し、伊吹丸此地の漁夫を搭載して北見に送らんとすればなり。八日午前一時、八ノ戸を出帆し九日に至て風波大に起り船の動揺甚しく、後半抜海に投錨す。十一日午前六時漸く抜海を出帆す。此日北東に懸けて遙に流氷を見る。午前十一時半氷の為に船を進むる能はずして稚内に船を帰して碇泊す。此夜天気晴朗、寒風皎々、山雪皚々たり。予感ずる所あり。
(中略)
 十二日、青天波穏かなり、然ども流氷を恐て出帆する能はず。十五日午前七時出帆、此日枝幸に至り氷の為に復前進する能はず、午後一時二十分同地に投錨す。夕方に及で流氷益々近づき来りぬ。其長さ数里に連り、恰も水晶の山脈を造るが如くなりき。船は之れに触んことを恐れて出來べく丈け海岸に寄せたり。十八日、天気晴朗近傍に復た氷を見ず。午前七時半出帆、午後一時半紋別に着す。此日流氷片々海上に浮動す、恰も雪の多島海を望むが如く見えたり。盖し、遠く隔てて之を見れば流氷海上に満たるを以て、山野の雪と相交りて一面の銀世界を作り海陸の區域分見する能はざるなり。二十日午前七時半同地を出帆す。此日の船海は実に壮快を極めたり。無数の断氷海上を蔽ひ、船は速力をゆるめて氷の少き所を施行せり。水夫マストに乗りて望遠鏡を以て前路を窺ひ、成るべく流氷の無き方を撰て進行しぬ。流氷の形、実に千状万態種々の形を為せり、実に奇観なりき。海獣其上に遊べり、船近けば皆海中に投じて其形体を隠せり。午後三時、網走に着す。北光社の事務員其他の人々、予ら一行を本船に来て相迎へたり。

つづく

第二十話

坂本直寛と沢本・前田との相違

ところで不思議なことがある。坂本直寛が「予は三人の友人と共に八月二十日札幌を出発して陸路該原野に赴きたり」と語っていることを、前掲の「予が信仰之経歴」より紹介した。それは明治二十九年(1896)のことである。坂本はこの時、なぜ「三人の友人」と言ってその名前を挙げなかったのか。また、明治二十八年(1895)に初調査をしたという前田駒次は、なぜ「土佐の人沢本楠弥・前田駒次の二人は、今一人とともに」と言って、この「今一人」の人物の氏名を隠したのか。
 筆者は推測する、坂本が「三人の友人」と語る三人の中には沢本楠弥と前田駒次が入っていた。そして前田らが語った「今一人」とはほかならぬ坂本直寛である。ただ坂本が沢本・前田両氏にふれなかった理由の一つは、だれとだれが初めてクンネップ原野を初踏査したかは問題ではなく、むしろ自分が拓殖事業を興した動機・理由を伝えることを著書の意図としたためではないか。あるいはこの著述をするときの北光社の現実と実態は、彼自身の志と理想からはるか遠く、北光社の精神と思想を象徴する移民規則に見られる高潔な、倫理性の高い理想とあまりにも隔絶した開拓の現実に失望していたということはなかったのか。
 そして前田駒次も、北光社の創立者、初代社長、また先輩であった坂本直寛と共にクンネップ原野を黒駒にまたがって一番乗りできたことはむしろ誇ることであり、幾分の誇張をまじえて語ることがあっても、決して「今一人」と遠慮深く、また無視する如く、その名を秘密にすべきこととは思われない。
 それとも前田らは坂本らとは全然無関係に、独自にこの実地調査を、坂本らが北光社農場創設の主唱と構想、計画方針をいまだ具体的に公表し推進する以前に下検分を依頼されて実施したという事実も全く否定しさることはできない。そして翌年八月坂本は、沢本、前田の前年の現地調査報告にもとずき、開拓事業の責任者としてその準備と推進のため、自ら他の友人を伴ってクンネップ原野を踏査したということもありうる。坂本と沢本、前田の初踏査の日月を意識的・意図的に符号させようとする努力は、坂本をあまりに北光社の中心的主要人物として評価しすぎる偏見から生ずるためらいかも知れない。
 後述するように、入植が一応一段落すると、坂本は北光社農場をあとにして石狩国の浦臼聖園に立ち寄り、帰高して翌年家族を引き連れて聖園農場に入植する。なぜ北光社でなくて聖園に移住したのか。争いあるいはトラブルが起こり、坂本をして北光社移住を困難ならしむる重大時でも発生したのか。いずれにしてもこの時の顛末は、多くの疑問を残しいまだ解明されていない。
 なるほど坂本の妥協と抱擁を知らぬ、あまりにも潔癖な性格や正義感は、むしろ傲慢の印象さえ与え、多くの誤解を招くところがあったといわれる。加えて坂本はなんといってもまず思想家(イデオローグ)であり、理想化であって、実務家、技術的農業指導者ではない。沢本、とりわけ前田は思想家の範疇に属する人たちと言うよりも、理想をいかに実現するかという実際問題、政策については、かなりの妥協も状況判断もできるいわば実務型(テクノ)政治家(クラート)であり、それに具体的農事指導もできる経験と知識、手腕と能力の持ち主であった。また、事実、前田はさきに武市安哉の創業した聖園農場で農業の技術指導もし、稲作の試作にも成功した実績と経験をもった老練である。沢本と前田は、明治三十三年(1900)、入植後四年にして稲の試作に大成功を収め、同年秋開かれた北見国水陸物産品評会に、北光社と出品した米が一等賞の栄誉を受けたと、当時高知の土陽新聞は報じている。
 このようにイデオローグで理想家の政治家、詩人で霊的説教家タイプの坂本直寛と実務的政治家であった農業指導者の沢本楠弥や前田駒次と比較すると、食うや食わずの貧乏移民にとっては、まず神の言葉よりもパンを与えることに労する実務家に指導を仰ぎ、その意見や指示により多く従っても、それは自然の成り行きであろう。
都会出身の思想家、インテリの坂本、農村出身で共に村長、助役の要職の経験をもった農人沢本、前田の違いが、北光社の思想と理想、性格と経営におのずから微妙な変化とニューアンスをそえ、坂本の意にたとえ反するような結果を生じたとしても、それは責められるべきことではないであろう。したがって、彼らの間にトラブルや解決しがたい問題があったと見るべきではなく、全く別の理由と事情のため、坂本は北光社ではなく、聖園農場を選んで移住したと見るのが、むしろ真相に近いのではないか。

第十九話

沢本楠弥らの初踏査年月日は正しいか


北見市史(昭和三十二年刊)その他の文献によると、北見探検旅行は、前述したように、明治二十八年(1895)八月、沢本楠弥、前田駒次、従者一人によって試みられたことになっているが、前掲の坂本の著書によると、その翌年明治二十九年(1896)八月、坂本は友人三名によってなされたとある。そして札幌に着くまでは、天塩国が候補地であったことは片岡への書翰の内容と合致する。
 さらに初踏査が坂本たちによってなされたことを裏付ける第三の資料となるのは、道庁技師内田瀞の経歴である。道庁を訪ねた坂本らに北見が将来大いに有望であると力説したのは、土佐出身の内田技師であったと、「訓子府町」史は語る。そこで両者の一年間の食い違いは、内田瀞が当時道庁に在籍していたかどうかを調べれば明らかになる。
 内田瀞は道庁に在籍中、二度にわたって休職した期間がある。彼は明治二十七年(1894)十月から明治十九年(1896)四月まで休職し、その間雨竜郡深川村妹背牛に内田農場を開設し経営に当たった。土地不案内の沢本や前田が農場に内田技師を訪ねて後、クンネップ原野踏査のため前年出発したことも考えられなくはない。しかし、理想の農業国北海道の建設のため、道庁技師として開拓の基本となる未開の大地の探検調査、植民地の選定や区画割りを担当し、明治二十二年(1889)北見地方の区画測定の時の同僚柳本通義とともに、クンネップ原野をも巡回したことのある内田瀞の教示とアドバイスを受けたとすれば、上の休職中のことではなしに、区画割りを事業を完結するため道庁に復職した明治二十九年(1896)四月以降、すなわち八月と見るのが自然かつ妥当ではないか。
 もう一つ、沢本と前田が明治二十八年(1895)、クンネップ原野を初めて調査したとする定説にとって不利な証拠資料がある。それは、彼らがこの年月何をしていたかである。前田駒次については同年月に何をしていたかその証拠資料となるものは今のところ見当たらないが、沢本楠弥については次のような文献がある。
 沢本の郷里土佐の介良村が属する長岡郡は、藩政時代から水争いが絶えなかった。それは灌漑の便が悪かったのが原因であった。そこで新改村の北方にある甫喜峯にトンネルをうがち、穴内川の水を引く計画が立てられ、明治25年(1892)頃から呉羽長岡郡長を中心として関係村落間の協議が進められてきた。当時としては破天荒な大土木工事であった。貧弱な二、三ヶ村だけでは到底負担し得ないほど莫大な工事費を要するし、その資金集めには社会的にも名声もあり、勢力もある人物を頭に頂く必要があるとして、郡長は沢本楠弥と中沢楠弥太の両氏に援助を要請した。それが明治二十七年(1894)十月のことである。両名とも快諾し顧問を引き受け、沢本は明治二十八年(1895)八月、甫喜峯水利組合委員長に推された。それ以来、沢本はこの事業の中心となり、県議会に働きかけ、県費の補助を受けることを第一目標とした。そのため家事はすべて放擲し、居を一時高知の旅館に移して補助金請願の趣旨を有識者に説いて廻った。その結果二万余円の県費補助獲得に成功したので、それより当時の模範的工事といわれた琵琶湖疎水などを視察したり、板垣退助伯を通じて内務省のドレイク技師を招いて調査させ、中沢と共に高知の資産家から融資させるなど、明治二十九年(1896)にかけてこの事業に没頭していた。そして工事着手が確実となったとき、北海道開拓事業に転ずべく、同年七月委員長の職を中沢に引き継いだ。
 こうした情況の中でクンネップ原野探検調査の時間的ゆとりも、精神的準備もあったとはどうしても信じがたい。
 さらに沢本は、このほか明治二十七年(1894)八月より明治二十八年(1895)十二月まで介良村村長を勤めていた。その後は介良村外五ヶ村学校組合長、その他の公職に就いている。したがって明治二十八年(1895)八月、沢本が前田と共にクンネップ原野を実地調査したとする従来の定説は、以上のような沢本の活動や役職から見て、日時的にも全く符合しないし、根拠がないと言わねばならない。
 ここで北光社農場初代副社長及び農場経営責任者、また、第三代社長となった沢本楠弥についても一言しておきたい。
 沢本は、安政二年(1855)十二月十五日、土佐郡介良村に生まれ、若いときから自由民権運動に加わり、村議会員・県会議員を勤め、同志武市安哉らと共に長岡郡に政党を組織し、県下政党合併に際し、長岡郡政党団体の総代となり、民権運動に挺身した。また例の三大事件建白運動の時、片岡、武市、坂本らと共に石川島監獄に投獄された。彼もキリスト教徒であったが、高知教会員ではなく土佐本山教会の篤信の会員であった。しかし惜しむらくは生来、強健な肉体に恵まれず、獄中で肺結核や痔瘻をわずらい、寒さのため肺炎にかかって重症に陥り、帝国憲法発布【明治二十二年(1898)二月】の大赦により釈放出獄を許されたが、直ちに帰高することができなかった。武市安哉、坂本直寛、細川義昌らの友人三人は、彼を東京神田駿河台にある山龍堂病院に入院させ、当分の間看護に当たった。
 北光社農場の責任者となった沢本の動静は、高知と北見との度重なる往復に忙しかった。それは必ずしも農場の報告や協議という業務上の旅行ばかりではなく、前述のように、生来身体虚弱の上に、石川島監獄で罹患した肺結核・痔瘻がたたり、その後もそれに悩まされたようである。また氷点下三十度にもなんなんとする厳しくて長い北海道の冬の生活は、彼の身体にはこたえると見え、毎年秋の終わりには土佐の介良村に帰り、春にはまた渡道するのが毎年の習わしであったらしい。
 入植後の沢本の活動や努力は、前田と共に文字通り寝食を忘れるほどの激務であった。そして社長坂本直寛が、入植後まもなく北光社より浦臼聖園に去ったため、実務的に社長の地位と責任を背負った。北海道官設鉄道第二期北見幹線速成同盟会政府請願委員総代として東奔西走し、初代野付牛農会長として席のあたたまることがなかった。それだけに沢本の健康は年と共にむしばまれたのであろう。
 沢本は普通、北光社第二代社長と信ぜられているが、第二代社長は高知大財閥でキリスト者であった、北光社の株主のひとり由比直枝が選任されている。北光社農場の由比班は彼の名前にちなむものである。沢本が社長となったのは、その後の一期間である。
 明治三十六年(1903)秋、例年のように南国土佐で越冬すべく厳寒に向かう北見を離れたが、翌春になっても坐骨神経痛に悩まされ再度渡道することがゆるされず、同年すなわち明治三十七年(1904)十月一日脳病のため没した。享年四十九歳の若さであった。

つづく

第十八話

原野の地形は四方山を以て籠み、僅に東北の一隅開けてムカ川に接し対岸の屯田兵村と境せり。全野の風光実に快活にして、人をして凄孤の感無からしむるを以て移民の為には甚だ都合好しと思へり。今日の所にては北見の原野は大いに不便を感ずるも、他日鉄道布設の暁に至らば大いに便利を得べし。彼の池田網走間の鉄道線はクンネップ原野を貫通することと成れり。
 此人跡未だあらざる原野に拓殖事業を経営せんこと困難固より豫め期せざるべからず。予等原野に至りし時、草中に膝まづきて神に感謝し而て将来に就て祈祷せり。其時予は、アブラハムが神命を受てカナンの国に移住せし事蹟を思ひ出したり。當時彼らがカナンに移住するや、其不便固より今日の比に非ず。且つ撰定すべき土地の如きも漠然として定まれるに非ず。希伯來(ヘブル)十一・八[新約聖書ヘブル人への手紙十一章八節]を見るに、信仰に由アブラハムは其承継ぐべき地に行けとの命を蒙り、之に従ひ其行く所を知らずして出たり。

とあるを見ても其拓殖すべき土地の明に定らざりしを知るに足るべし。然ども彼は神命を疑はずして断然故郷を捨て遠征の途に就けり。况や、彼が到りし土地は他民族の既に占領する所にして、彼は之を取る程の兵力をも有せず、又之を買うべき金力をも有せず、彼は唯妻サラの為に一掬の墓地を買ひたるのみ。然ども彼は信仰に由りて遂に希伯來国民の祖宗とは成りたり。彼が始めて移住したる時は、今日吾らが北見の原野に移住するの此れにあらんや。其不便固より語るを俟たず。且つ土地すら定らざるをや。

それ信仰は望む所を疑はず、未だ見ざる所を慿據とする者なり[ヘブル人への手紙第十一章一節]。

是の聖書の言は大に予らを励ますに足りき。
 上の坂本の自伝から明らかなことは、北海道の拓殖事業の思想と理想の原型が、三大事件建白運動のため、明治二十年(1887)十二月下旬、保安条例によって投獄され、聖書の申命記第八章三節「人はパンだけでは生きず、主の口から出るすべての言葉によって生きる」との聖句に啓示されたもの、ということである。
 この時彼が手にした聖書は、かつて坂本たちの母教会である高知教会の発祥に側面的に大きく貢献し、また板垣退助の友人としてたえず官辺から要注意人物と警戒されていた、当時東京芝教会牧師、安川享の配慮による差し入れの賜物である。坂本はその感激を聖書の裏扉に、「主我祈ヲ聞キ給ヒテ明治二十一年二月二十日 石川島ニ此書ヲ賜フ アーメン 雲柱堂碧水」と書きつけた。雲柱堂碧水とは、彼の雅号であるが、神が荒野を旅するイスラエル民族を昼は雲の柱、夜は火の柱で導き、岩を打砕いて水を与えた古事にならったものと思われる。
 彼はこのため以来九年間、神に祈ることほとんど一日も欠かすことなく、導きを求めた。初めメキシコ移民の計画をきき、メキシコ開拓を決意したが、内外の政治情勢が不穏のため、とりわけロシアの図南政策を恐れる日本にとって「北門の鎖(さ)鑰(やく)」、北海道の砦を固める必要上、北海道拓殖も無視できなくなった。メキシコか北海道か。神に祈りつつ、友人片岡健吉らに相談した結果、北海道拓殖を優先すべきとの勧めを受けた。そして自ら総代のひとりとなって北海道に渡り、土地貸下げを願い、それがこのクンネップ原野の北光社農場となった。
 かくして坂本は、明治二十九年(1896)五月二日高知を出発し、十七日に札幌に到着。初めの貸下げ予定地であった天塩国の天塩川沿岸は、御料局の用地であることが判明し、坂本直寛と三人の友人合わせて一行四人は、八月二十日札幌を出発、クンネップ原野の実地踏査に向かうことになったのである。

つづく

第十七話

坂本直寛の「予が信仰之経歴」

次に北光社農場設立のため、クンネップ原野の実地踏査にのりこんだ最初のひとりが、ほかならぬ北光社の設立者、かつ初代社長坂本直寛その人であり、しかもそれが明治二十九年(1896)八月であったことを彼の信仰的自伝「予が信仰之経歴」の中に明記されていることを指摘しておきたい。
 この「予が信仰之経歴」についてふれると、前編と続編とから成り、前編は明治二十八年(1895)、東京メソジスト出版社から出された。信仰的自叙伝ともいうべきもので、十三章からなり、生い立ちや政治生活については簡潔にふれるだけであるが、明治二十年(1887)の三大事件建白運動に参加し、東京滞在中保安条例の緊急公布によって、退去命令に抗議したため、片岡健吉ら同志と共に、官命抗拒罪に問われ、石川島監獄に幽囚の身となる前後および獄中生活、最初の妻鶴井の水死事件という悲劇的出来事が中心となって本編は終わる。明治二十七年(1894)八月までのことである。
 続編は、翌明治二十八年(1895)七月、第二の妻翠の病死、北光社創設により北海道北見国クンネップ原野の開拓を創業した経験、浦臼村への移住、石狩川大洪水による罹災とその救済活動、牧師としての召命、旭川講義所(教会)牧師となり旭川師団軍人伝道、ピアソン宣教師夫妻との十勝監獄伝道とその活動範囲は広く、二十二章からなっている。
 その格調高い詩的名文は、歌人であった父高松順蔵の文筆の血をひくもので、坂本自身、幾度か絶句し、おえつし、涙を落としてはたもとをぬらし、あるいは筆をおいて神に祈り、また目をとじて瞑想し、聖霊の感恩に浴して再び筆を走らせたにちがいない。それは単に墨と筆で書かれた人生論でも宗教論でもなく、血と涙をもって彼自身の体内と生活にきざみこまれた神の限りなき愛のゆるし、また恵の証しの記録にほかならない。
 前編・続編は明治四十二年(1909)、合本となって東京教文館から出版され、坂本の五十七歳のときであり、死の二年前のことである。
 なおこの「予が信仰之経歴」は、土居晴夫氏が昭和四十五年(1970)、土佐群書集成 第二十三巻、第二十四巻、第二十五巻坂本直寛著作集(上)、(中)、(下)として編集し、その(下)に収められている。出版は高知市民図書館である。
 次にこの「予が信仰之経歴」中より、北光社設立に関連する二つの部分をやや長いが、抜粋紹介しよう。一つはその続編第三「予が拓殖事業を発起したる元由」、他は同第五「予が北征及移民の困難」である。
まず前者から引用しよう。
 「前編にも述べた如く、予は明治二十(1887)年十二月下旬保安条例に由て石川島の監獄に幽閉せられたるが、予は獄中於て聖書を読み大いに深く感ずる所ありき。予が拓殖事業の思想を起ししも即ち此獄中にて聖書に感ぜし事の一つなりき。前にも云ひし如く、予ら入獄後三四ヶ月を経過するに従て漸く飢餓を覚ゆるに至り、或る日精神消沈して凄乎の情胸に満し際、不図申命記八章(旧約聖書)に読み当りて大いに神の恩寵を受け、此章を通読するや予が精神忽ち鼓動し来り、凄乎の境遇より頓に勇壮快活の境遇に入たるものの如く、恰も一片の聖火予が胸中に燃えて憂愁の情を焼き盡したるが如き感ありき。之に由て予は、人はパンのみにて生る者に非ず、人はエホバの口より出る道(ことば)によりて生る者なり、との言を実験せしのみならず、神がモーゼをして希伯来(ヘブライ)国民建設の偉業を為さしめ給ひたる事蹟を深く心に銘するに至り、予は之によりて、若し聖意に適はば将来神によりて或る事業を試みんとの希望を養ひぬ。是れ予が拓殖事業を経営せんとする思想を起したる基にして、聖書は実に予をして此理想を起さしめたるものと云べし。予は爾後九年間神に祈ること殆ど一日も欠けたること無き程なりき。其後東京の紳士間にメキシコ殖民の企図あるに会し、予は榎本(武陽)子爵、安藤太郎氏等が計画せる所に従て自から彼の国に航せんと決意するに至れり。
然るにメキシコ移民事業の如き、萬里の波濤を越て為すべき遠大なる事業なれば容易に実行するの運びに至らず、予は其成らん日を待つこと数年なりき。此間日清戦争の起るに会し、我国情は迚も外国に移住を為す程の餘裕無きにぞ、且戦後欧米諸国益々東洋政略に其意を用ゆるに至れり、特に露国が図南の動作彌々我邦人の注意を要すべき時勢と為りたるを以て、北海道拓殖の等閑に附し去るべからざるを感じたり。然れども、予は容易に前の決意を変ぜず、予が将来の事業はメキシコに於てする乎、はた北海道に於てする乎、二途いずれか神意に適ふべき乎、予は固より知る能はず。玆に於て乎、此二途の中いずれか神意に適ふものを選定せんと神に祈れり。予が境遇は遂に北海道を撰定すべきことと成りぬ。予が友人等片岡健吉氏を始め皆予に勧むるに北海道に行くべきを以てす。茲に於いて同志の人々一の拓殖会社を設立し、北海道に一の地積を撰定して土地を願ひ、其許可を得て彌々植民地を開くこととは成りぬ。是れ即ち北見の国常呂(ところ)郡クンネップ原野北光社の農場なり。
 是れより先き、予は明治二十九(1896)年五月二日高知を発し、東京に立ち寄り数日滞在の後十七日札幌に着したり。初め予等は天塩(テシオ)国の天塩川沿岸を撰びたるも、同地は御料局の土地と成りたれば他に便利なる所に大地積の貨下無く、種々調査の後遂に右に述たるクンネップ原野を撰定しつつ、其貨下を受るに至れり。予は三人の友人と共に八月二十日札幌を出発して陸路該原野に赴きたり。
 抑、此原野は南北平坦里餘、東西殆ど八里餘と云う原野にして、或は樹林あり、或は草原ありて、常呂川とムカ[無加]川との中間に横れり。時恰も秋にして満野秋草を布けるが如く風景実に佳なりき。予算は馬上にて彼方此方を探験せり。予は下の如く口吟せり。
 鞭あげて野辺はせ行けば黒駒の ひずめの風に萩が花散る

                                            つづく

第十六話

初踏査年月の食い違い

さて安芸喜代香の日記でも明らかのように、土居はこのとき北海道から聖園農場の開拓の状況の報告、またその他の要務もかねて帰高し、ほどなく上京し、片岡健吉を訪問する予定であった。このチャンスをとらえて認めたのが、先に揚げた坂本の手紙(第十四話)ということになる。
 明治二十九年(1896)二月頃、坂本が北海道開拓事業を企画し、高知財閥の由比直枝、大脇克佶(共に高知教会々員)が賛成していたこと、候補地は北海道天塩国であったこと、片岡健吉がその計画をかねがねきいていたらしいこと、そこで改めて発起人のひとりとなることを依頼された主旨が、この手紙で理解できる。
 ところでこの坂本の書翰と北見市史、訓子府町史と対照するとき、もっとも顕著な相違点は、坂本が明治二十九年(1896)二月「天塩」を候補予定地にしているのに、その前年明治二十八年(1865)8月「北見」を実地調査したこと、そしてこれらの文献が、坂本直寛の動静について全く言及していないこと、これは何か意図があって、坂本の存在をネグレクトしたのではないかと考えるほど不思議である。
 ただ一つの推定は、たしかに坂本は同年九月に開かれた北光社の株主総会で社長に選出されるほどの地位にあったことは事実だが、坂本とは別のルートで沢本楠弥、前田駒次がその前年、すなわち明治二十八年(1895)、独自にクンネンップ原野を初踏査したとは考えられないであろうか。しかし今のところそのような推定を事実として証拠だてる資料がない。
 さらに次の事業は注目に値する。坂本の初踏査が、北光社農場開設がいかに可能性と将来性に富んだものであるか、しかもこのクンネップ原野が理想的聖村建設の夢を実現するにふさわしい約束の地であるかを伝える電報を、彼は同年九月五日網走から高知に打っている。
 「今回の貸下地は地形広大・地味良好にして開墾容易なる屯田地に劣らず、網走へは十二里其間馬車通じ、来春は郵便電信局隣地への建設の筈なり。」
 (この電報は、土佐の自由党の機関紙ともいうべき「土陽新聞」明治二十九年(1896)九月九日号「電報北光社の殖民地 五日午后八時二十分 北海道北見国網走 阪(ママ)本直寛氏発」として掲載された)。

第十五話

武市安哉と聖園農場


前述の坂本の書翰中、最後の条に「土居氏上京の時」云々の土居氏は、安芸喜代香の日記に出てくる土居勝郎と同一人物で、後に武市安哉の婿となった。
 ここで北光社開拓の先駆的役割を果たした。武市安哉の開いた聖園農場にふれておかねばならない。
 武市安哉は、高知教会の長老であり、また国会議員であったが、議会と政治に失望し、ひそかに期するところがあって議員の職を辞した。議会は彼の信仰の良心と民主的理想を実現するには、あまりにも腐敗した俗界であった。民権運動とキリスト教の中で成長してきた理想主義的な武市にとって、人民から遊離した議会、正義と道理によらず、利害と打算によって離合集散し、周旋と駆け引きと談合に明暮れる党人や議員の腐敗と堕落は、潔癖な彼には耐えがたい貧婪の世界でしかなく、何の魅力も未練もなかった。それに民権運動家の理論的指導者とも云うべき人たちさえ、遊郭にひたって恥ざる時代であった。結論は単純である、「人間改革、しかもそれはキリストを信ずる信仰によってのみ可能である」と考えた。
 こうして武市は、日本の民主化の理想をまず個々の人間改革から着手しようと思いつき、明治二十六年(1893)七月、郷党健児三十人を引きつれ、北海道石狩国樺戸郡浦臼に、民主的・キリスト教的理想郷「聖園」農場を創設したのである。この武市の聖園農場創設に、民権運動時代からの若き同志、前田駒次や遠軽開拓リーダーのひとりとなった野口芳太郎が加わって農場の指導者となり、第一次入植隊を引率することとなったのは、武市にとって百万の味方を得るに等しかったと思われる。この前田駒次こそ北光社と北見の開拓の歴史と切っても切り離すことのできない人物となった。
 後に明らかになるように、坂本直寛の北光社農場創設の直接的、具体的な決意やプログラムも、武市安哉のこの聖園農場創設に影響され刺激を受けたところが少なくないと言われる。事実、前田駒次がやがて聖園農場より北光社農場に移り、終始その実務家としての能力と手腕を発揮し、農場の発展に尽くし、移民を指導しえたのも、武市、坂本、土居らと親しい同志の間柄であったためであろう。
 武市安哉は、聖園に入植の翌年、明治二十七年(1894)十二月二日、郷里高知県より帰北の途中、函館に向かう船中で志半ばにして急死、武市の婿となった前述の土居勝郎が、彼なき後の聖園農場々主となり支配人となった。
 坂本の片岡健吉宛の書翰に「土居氏上京の時」と書かれているこの土居も、三大事件建白運動中、保安条例により逮捕され、石川島監獄に下獄したとき、一年半にわたる獄中生活の間、奇しくも片岡と同房で日夜起居を共にし、片岡の信仰と人格に深く打たれ、獄中でキリスト教に入信した。土居勝郎こそ捕われの身で生れた片岡の信仰の愛子であった。青年土居は獄中の閑居に退屈して、新約聖書ヨハネによる福音書全巻を丸暗記したという。武市は獄中ひそかにこの有為な青年に目をつけ、娘婦佐の婿に予定していたらしい。

第十四話

クンネップ原野初踏査をめぐる疑問
北見市史(昭和三十二年刊)は語る


「常呂村から分割される2年前明治二十八年(1895)八月、土佐の人沢本楠弥、前田駒次の二人は今一人とともに石狩国の浦臼から馬六頭を用意し、中央道路を通って相内に来た。」

この点について、訓子府町史もほぼ同趣旨の叙述をしている。
 したがって、明治二十八年(1895)八月、沢本楠弥と前田駒次の両人が北光社の人として最初にクンネップ原野に足を踏み入れ、実地調査をしたことが通説となり、その後文書では、これが動かしがたい定説として一般に信ぜられ、主張されてきた。
 ところが最近の研究によれば、クンネップ原野初踏査が、上の両人によって同年なされたとなすこの定説を覆す有力な文書、資料が発見され、上の定説を疑問視し、訂正すべきであると主張する人が現れた。この事については、土井晴夫氏がすぐれた論文に書いている通りである。
 上の定説を覆す第一の決定的な資料は、明治二十九年(1896)二月八日付、同志片岡健吉に宛てた坂本直寛の書翰である。これは高知市立市民図書館において偶然発見されたもので、北光社研究の重要な手がかりとなり、多くの誤解と疑問をとく鍵ともなる資料である。

 拝啓仕候 過日も申上候如く小弟は祈りと熟考とに由て断然北海の拓殖を決意仕且つ由比 大脇両兄の如きも大に賛成し共に願主と成りて此事業を助くべしとの事にて、弥小弟も希望を厚く仕候 彼の手塩の原野殆ど十万石に近き弘((ママ))原は地味と云ひ運搬の便と云ひ頗る希望のある土地にして吾人が理想的の社会を建設するの御験たりと存候 希くは土佐兄弟の一手少くとも日本信徒の元動力として彼の地に拓殖の事業を設計し将来日本社会に一の潔き義に生きる神の国を作り度存候  先生も何卒御賛同被下且つ願主の御一人と御成被下度精きは土居氏上京の時御譚し申上可く候 御多忙中とは察し候得共御意見承る事を得ば幸之事に御座候             
草々

二月八日
 片岡老台
二白 細川兄は如何に御座候哉  御面会の砌御勧め被下度候

 この坂本の書翰の日付は二月八日と記されているだけで、年号が欠落している。しかし郵便の消印が明治二十九年(1896)となっている.さらに内容的根拠として、安芸喜代香の日記、明治二十九年(1896)二月六日の項に、「小高坂組合会を自宅に開き土居勝郎氏を招待し北海道殖民談を聞く」とある。
 この安芸喜代香は、片岡健吉や坂本直寛らと共に高知教会の有力メンバーで、また信徒伝道者となった。彼は例の三大事件建白運動で捕らえられ、投獄されたとき、片岡健吉、坂本直寛、武市安哉、細川義昌、沢本楠弥の中心的指導者がキリスト教徒であったため、その影響をうけキリスト教に入信した。また立志社出身の民権運動の同志であり、坂本とは義理の従兄弟でもあった。さらに後の北光社との関係で言えば、明治三十七年(1904)社長沢本楠弥の病没後、北光社の第三代社長に選出され、翌三十八年(1905)八月二十八日北光社を訪ね、農場を視察し、北光社の教会で説教した。このことは、北見教会が野付牛講義書と呼ばれている時代の文献にとどめられている。

第十三話

北光社設立の経緯と坂本直寛

高知教会は誕生後、破竹の勢いで快進撃を続け、早くも明治二十年(1887)には会員数221名に達する大教会に成長し、教会堂の新築を余儀なくされた。
 ところが建築途中、例の三大事件建白運動が発生し、長老片岡健吉、武市安哉、細川義昌、坂本直寛らを初め、後の長老安芸喜代香、前田岩吉、山本繁馬らの教会員が保安条例によって東京石川島監獄に投獄される事件が起こった。
 民権運動は、自由党解散によって一時挫折の悲運に陥ったが、明治二十年(1887)の条約改正問題を契機に再び燃え上がった。各党は力を合わせて藩閥政府打倒にのり出し、三大事件(地租軽減・言論集会の自由・外交の挽回)建白をもって政府に迫ったところ、政府は逆にこの年十二月「保安条例」を布いて、片岡健吉、尾崎行雄など危険人物と目される政客を東京から追放し、かろうじてこれを押さえるという険悪な事態を引き起こした。
 しかしこの事件によって捕えられ、幽閉の身となっていた坂本直寛の心中に霊感の如くに、一つの思想と理想の種がまかれ、次第に育ちつつあった

北光社農場

 北光社の移民と関わりの深い北見市と訓子府町において、従来北光社の歴史について語られるとき、いつ、誰が最初にクンネップ原野に足を踏み入れたか、移民の苦闘と困難はどのようなものであったか、こうしたことを伝えるのみで、その市史も町史も深く北光社の創立の精神・思想・意図について言及していない。
 合資会社北光社[資本金九万円]は、国家的背景も援助も期待せず、純粋に民間人の独立と自由に基づいておこされ、民主的・理想的近代国家の形成と確立を目ざしていた開拓移民団であった。
 したがって、北海道北見国クンネップ原野に入植した北光社移民団の志と計画がどのような動機と事情で、いつごろ、どこで、だれによって主唱されたか。またそれはいかに組織され推進されて一つの団体となったのか。
その創立者の思想と動機、さらに行動を明らかにすることが必要である。
 この開拓団の特色と意義は、北光社農場という小さなキリスト教的・自由民権的聖村建設の思想が、当時の明治絶対主義に基づく中央主権国家の形成と確立の過程でなされた資本家・大地主・華族による大土地所有の稙民開拓や屯田兵制による開拓団とは質的に大きく違ったイメージの国家形成を志向し追及していた点にあるといえよう。

第十二話

高知教会の設立と進展


明治十八年(1885)五月十五日、前年十一月できた高知中島町耶蘇教講義所において、高知教会はその誕生を見た。前年よりこの年にかけて、米国宣教師団中の精鋭フルベッキ[1830-1898]を初め、タムソン、吉岡弘毅[旧外交官・高知教会第二代牧師]ミロル、ナックス[1853-1912]、桜井昭悳・千賀子、植村正久[後東京富士見町教会牧師[1857-1925]、ブライアン、リート、アレクサンドル、アッキンソン等による伝道集会が次々と波状的にくり返され、遣わされた人、地元の人びとの熱心な祈りと働きの中で、神の計画の「時満ちて」この南海土佐の地に、主の教会が誕生したわけである。
 午前八時より、中島町七七耶蘇教講義所において、高知教会の設立式が行われ、式の次第は次の通りである。

 1 祈  祷  ナックス氏
 2 聖書朗読  ミロル氏
 3 説  教  アレキサンドル氏
 4 洗礼執行者 ナックス氏
   介添    東京新橋教会長老 細川瀏氏

 この中、細川瀏は佐川の人、慶應義塾を終え、中学校教師を経て、後に台湾の嘉義の教会の牧師になった。安川亨と親しく、高知教会の古い時代に大きな貢献をした人物である。
 この教会設立の日にジョージ・ウイリアム・ナックスより洗礼を受けた人には、後の北光社にかかわりのある片岡健吉、坂本直寛、西森拙三ら男七名、女六名、計十三名であった。次いで役員選挙が行われ、投票の結果、長老に原房太郎、西森拙三[北光社講義所伝道師]が選ばれた。またその年のうちに、のち代議士となり、また北海道石狩国樺戸郡月形村浦臼内に聖園農場を開いた武市安哉[1847-1894]らが洗礼を受けてこの教会の群れに加えられた。
 これらの信徒の大部分は、三十代以上の中年層であり、かつ男子のほとんどが戸主であった。これはまだこの時代に、古来の家の宗教をすててキリスト教に入信することは、相当の困難と決意に直面したことを物語っている。また僅か一名を除いて、他はすべて士族であり、自由民権運動の関係者が多いことが高知教会の大きな特色であった。
 当時の代表的な信徒たちのキリスト教入信の動機を見ると、罪に苦しみ、悔い改めることによって救いを見い出すというような場合は少ない。片岡にしても坂本にしても、キリスト教をもっとすぐれた世界観、人生観、すぐれた宗教として見、自己とそれとの優劣を競って論破せられ納得させられた結果、信ぜざるを得なかったようである。したがってその信仰は、知的側面がつよく、キリスト教の教理理解にもある程度の知的教養が必要であったため、士族が多く信徒となったのもそのような理由からであろう。
 明治十八年(1885)九月、初代牧師山本秀煌が着任した。山本牧師の存在は、明治二十一年(1888)四月まで僅か二年半であったが、片岡、坂本、武市、細川義昌ら有力な信徒を中心とする熱心な伝道により、教会の進展はめざましく、東は長岡郡御免、安芸郡安芸町、安田村、西は高岡郡高岡町、佐川町、南は吾川郡秋山村、北は土佐村まで、水がしみ透るように福音は伝えられていった。
 その反面、また新設の教会では、教会形成のための内面的整備と訓練もきびしくなされ、過ちを犯した罪人が悔い改める時には、限りなく寛容であるとともに、神を畏れない傲慢かつ不遜な者に対しては決して妥協しなかった。われわれは、このような若い日の高知教会の信仰と生活の姿勢の中に、主の真実と愛に対して誠実に応えて歩もうとする「武士の教会」の高い志と清潔な倫理性を見る思いがする。

                                      つづく

第十一話

高知伝道に係わった人びと


プロテスタント教会の高知伝道については、ギリシャ正教会の司祭沢辺琢磨が九反田の立志学舎において、はじめてキリスト教につき講じた後三年、明治十一年(1878)、米国宣教師アッキンソンが高知にやってきたのがその端緒である。
 アッキンソンは当時、神戸教会を担当しており、そこを根拠として中国、四国の各地に福音の種を播きつづけていた。このアッキンソンを高知に紹介したのは、岡山の中川横太郎であった。土佐人の気性の烈しさは、その頃まだ外国人宣教師を受け入れるだけの度量と寛容をもたず、宣教師たちも少々恐れていたようであったが、中川の紹介で板垣退助が喜んで迎えようということになったため、彼の土佐入りが実現したという。
 アッキンソンは下僕に青年一人を伴って、聖書とキリスト教の文書などを携え、神戸より汽船浦戸丸に乗船して高知入りをした。一行が板垣を訪ねようとして、鏡川の堤を歩いていると、向こうから板垣らしい紳士がステッキを振り振りやってくるので、「板垣さんのお宅はどこでしょうか」と問うと、「ああ、君たちは神戸からですか。拙者がその板垣である。まあおいでなされ」というわけで、自分の家に招じ入れてくれた。彼らは板垣の好意と配慮で適当な家まで貸し与えられ、ここに一ヶ月ほど滞在し伝道することができた。
 その頃、片岡健吉[1843~1903]は折悪しく西南戦役に関わる国会開設建白書に関する立志社の事件のため下獄中であったが、植木枝盛、栗原亮一、竹内綱[故元首相吉田茂の実父]らが、京町にあった立志社の演説堂で隔晩に政談演説会を開いていた。アッキンソンらはそれに加えられ、政治や学術の演説に混じって、キリスト教について熱心に語った。アッキンソンの高知伝道は緒戦から上々の首尾であった。
 その後数年は特に目立った動きはなかった。しかし明治十年(1877)西南戦役以後の日本社会を見ると、まことに多事多難であった。木戸孝允の死、国会開設建白事件、西郷隆盛の自決、大久保利通の暗殺、府県会の開設、集会条例の布告、憲兵および警視庁の設置、板垣退助の自由党の結成、頭山満の玄洋社の組織、そして板垣の遭難等々。
 明治は第二期に入りつつあった。藩閥政治に対する根強い自由民権運動の推進と並んで、権力主義的、国粋的国家体制の強化、右翼の抬頭、さらに東京帝国大学を中心とする化学至上主義の攻勢が、主としてキリスト教に向けて加えられ始めていた。しかしながら、このような外圧によってキリスト教は後退するどころか、かえって力強い反発を誘発する結果となった。
 明治十七年(1884)、本格的な土佐伝道が始められた。東京に安川亨という熱心なキリスト教伝道者がいたが、板垣、植木等の自由民権論者とも親しく交際し、土佐にはことのほか親しみを持っていたようである。彼は、もし土佐人が本気でキリスト教を知ろうと求めるなら、当時最も優れた宣教師と言われるフルベッキとナックスを選んで送ろうとすすめた。
 このことを植木を通じて知った片岡健吉は大いに共鳴し、その場合には立志社として喜んで協力したいと申し入れた。このようにして高知伝道の計画は具体化されていった。しかし、高知伝道に忘れてはならない、また大きな貢献をした人物はほかならぬクリスチャンではなかった板垣退助その人であった。
 板垣は言うまでもなく政界における土佐派の盟主で、わが国の憲政確立のため具体的努力を重ね、西欧諸国の政治の実態にふれたとき、いよいよ西欧文化とキリスト教との深い結合に驚き、次第に理解を深めていった。
板垣が、新しい日本の政治の理念はキリスト教を基礎として打ち建てねばならないと、真剣に考えていたことは疑いない。このためキリスト教の高知伝道については、いつも表面に動いている人びとの背後にいて、彼があたたかい配慮と執り成しをしていたようである。     

つづく

第十話

結成 その2 坂本直寛の宗教思想と北海道開拓
高知教会の成立とそれをめぐる人々
沢辺琢磨とニコライ

土佐とキリスト教との関係は、一般に想像するよりはるかに古く、遠く戦国時代までさかのぼることができる。
松山秀美著「高知教会七十年史」には、一条兼定、明石掃部助守重、桑名古庵一家などのキリシタンの迫害にまつわる史実がいくつか紹介されている。 
 同書によると、土佐藩の宗門改めはなかなかきびしく、そのため桑名古庵の悲惨な獄死のあとは、幕末まで土佐にはキリシタンの足跡を見ることができない。ただ、藩政末期になって、とりわけ日本基督教会高知教会及び北海道とも少なからぬ関わりをもった人物を紹介しておきたい。
 坂本龍馬の従兄弟に、山本数馬という人がいた。武市瑞山(通称半平太)とも姻戚になり、江戸の桃井春蔵の道場で、烏天狗にあだ名された剣客であった。
 ある夜、悪友に誘われて飲み歩いた揚句、町人に乱暴し、その上町人が捨てて逃げた懐中時計をねこばばして、ある時計屋に売ろうとしたところ、その時計が盗品であることから足がつき、武士にあるまじき追いはぎ、強盗の仕業として、数馬は切腹のほかなかろうということに相成った。
 龍馬と瑞山とは数馬の人物と将来を惜しみ、一計を講じて彼を江戸の藩邸から放逐することにした。身一つで江戸を脱出した数馬は、奥州を過ぎ、遠く北海道函館の地まで落のび、縁あって同地の神官沢辺家の婿養子となり、名も沢辺琢磨(1833-1913)と改めて神職をつぐこととなったのである。
 たまたまその当時、函館にはギリシャ正教会司祭ニコライ(イオアン=カソトキン)が在住していた。拓馬はもともと尊皇攘夷の思想をもち、さらにキリシタンを邪宗として忌みきらっていいたため、ニコライに敵意と憎しみを抱き、つてを得たのを幸い、面会を申し入れた。場合によっては一刀のもとに両断しようとの魂胆であった。
 ニコライは、後に東京に転じ神田駿河台に有名なニコライ聖堂を建てたほどの優れた人物であったので、沢辺の殺意を悟り、技と面談室に内側から鍵をかけて、悠然と対座した。さすがの沢辺もこのニコライの胆力と気迫に圧倒され、まず立ち上がりに一本とられた形である。
「われわれは、西欧諸国が競って殖民地を獲得しようとするに当たり、まず宣教師を送って懐柔し、しかる後に兵を送って、有無を言わさず事を決したと聞き及んでいる。あなたの国オロシャも、わが国に対し、同様の野望をかくしているのではないか。加うるに、あなたの信仰するキリシタンは、人の生血をすすり、怪しげな魔法を使って人を誑(たぶら)かす邪宗ではないか。早々に退散せぬと眼にものを見せてくれるぞ」。
「あなたはキリシタンの教えを聞いたことがおありですか」。
「左様なものは存ぜぬ」。
「知らぬものを邪宗呼ばわりはちと理にかなわず、無礼ではありませぬか。よく研究された後、あらためて正邪曲直を大いに弁じ合いましょう」。
 勝敗のゆくえは歴然としていた。沢辺も高い志をもつ武士である。理非曲直を明らかにしたニコライのさわやかな説得には脱帽せざるを得なかった。
 彼はもち前の一本気をぶっつけるように、ニコライを師と仰いで深くキリストの教えを学び始めた。神職の家を継ぐ婿養子の身として悩みもなくはなかったが、はじめてきくこの新しい教えは、思わぬ失敗から故郷を捨て、遠く蝦夷の地に仮寓する彼に、新しい人生の門を開くかに思えた。
 函館の医師酒井篤礼と南部の人浦野大蔵とが、彼の同志に加わり、彼らは、邪教を忌む隣人たちの白眼視に堪えつつ求道をつづけ、ついに回心して、ひそかにその住居において、ニコライより洗礼を受けた。明治元年(1868)四月のこと、わが国におけるギリシャ正教最初の信徒であった。
 彼らの信仰は、罪よりの救いを得て、神との交わりの中に想うというような深い信仰理解と体験よりも、維新の激動期にこの新しい宗教によって国民を教化し、国家の改造をはかろうとするものであった。この点、明治初期の多くのキリスト教徒の動機・目的とその軌を一つにしていると言えよう。
 彼らはこの大目的のため、直ちに函館を去り、酒井は郷里宮城県に、沢辺と浦野とは東京に上って計画実現への努力を重ねたが、ことごとく思うに任せず、たびたび挫折した。彼らが函館に同志を集めた時などは、生活の資にも事欠き、沢辺は秘蔵の刀剣を売り払って一時をしのぎ、最後には妻まで売る覚悟をしたと伝えられているが、もちろんそのようなことがキリスト教信仰の立場から許されるわけはなかった。
 沢辺と酒井は、後にギリシャ正教会の司祭となり、日本正教会【ハリストス】の柱石として、その進展のため大いに貢献した。
 沢辺琢磨は、明治八年(1875)、高知に帰り、九反田の立志社学校において、キリスト教の説教をしているが、これはキリシタン禁制の高札が撤去された後、高知でなされたキリスト教の最初の公的発言であった。
 なお、その他キリシタン迫害史の最後を伝えるものとして、長崎の浦上キリシタンの来県があるが、それは割愛したい。

                                           つづく

第九話

北光社コミュニティ計画

明治二十九年(1896)、殖民地選定に渡道した坂本直寛は、札幌農学校長新渡戸稲造主宰の札幌の集りで、「北海道の発達」と題する講演を行ない、その中で北海道に造るコミュニティともいうべき殖民地の理想像を語った。
これは、彼が北光社に描いた理想像とみて差しつかえあるまい。

 「余の本道に来りしは去る五月にして、其滞在中或は人より聞き、或は自ら調査するあり。永き経験を有する人々余を訪問する者甚だ多し。彼等余のなさんとする事業の為め、数多の忠告を与えてくれしは余の深く謝する処なるも、余は残念にもこれを容るる能わず。彼等の意見は余の考えと違うなり。彼等曰く、小作人を寛大に取扱う可らず。
よぎなく事をなさしめ即ち疲らせ之を使役すべし。金を前以て与うれば逃走するを以て之を与う可らず、云々と。
 然れども余は移住民に対しては寛大にし、事を余儀なくなさしめては不可なりと思考す。見よ、今日の農場の有様を。土地を小作人に与うは稀にして、場主全く土地を有す。小作は純然たる小作たるに過ぎず。此の方法は将来北海道を盛大にし得るや否や疑うべし。小作人をしてただ疲労せしめ、自由を与えず、牛馬の如く労働これ事とせしめては、果たして北門の鎖(さ)鑰(やく)として保つ事を得るや。
 新世界に通して得たる処の富の蓄積は、正直なる個人的企業に得られたるものなり。北海道の労力者のなす処、之れに同じ処ありや。大凡そ人事は大抵同一なる理を歩み行くものなり。欧と亜と土地異なるあるも道理は同じ。
此の同じ真理の下に発達進歩する者なり。
 北海道の劈頭(へきとう)第一に迎えし殖民は山師的人物にして、また多くは内地の失敗者なり。故に彼等の心中義理もへちまもあらず。只私利を是れ事となすのみ。交際上であれ、事業上であれ、彼等に一片の道義心あるなし。
私利的の人物のみで将来発達進歩すべき北海道を形造るを得べけんや。
 また、北海道は干渉による可らず。道庁設立以来移住開拓或は殖産を発達進歩せしめんが為め、人民に或は土地を与え、或は官金もて家屋を建築して与え、或は補助金を与えて事業を助く。斯くて今日道民の依頼心あるものは皆な政府より金を貰うてなせし結果なり。・・・・これ甚だ悪し。見よ政府干渉して完全に発達せし者未だ之れあらず。見よ笑うべき者甚だ多きは今日の状態ならずや。甚だしき極点とも云うべきは国庫金にて出来し青楼(遊郭)あり。・・・・・
 国家は個人を以て成立す。分子不健全なれば其全体不健全なり。個々の人民自治独立の精神なくんば其国家の確乎たる独立望み得べからず。・・・思い見よ、此の自治の精神なかりせば北海道の将来果して如何。三国同盟の干渉の如きこと決して起らざる保証あるや。・・・・
 今日平和の日に於て露国は何故無益と思うまでも兵備を厳にし軍艦を派遣するや。かの戦争の当時北海道の有志は此の北門の鎖(さ)鑰(やく)を硏に守り得らるるの気力ありしや。・・・・北門鎖鑰の要地に住する北海道人士は独立自治の精神を涵養し、時に臨んで内地に依頼せざる様に為すべきなり。
 当今新聞紙報じて曰く。台湾土人何の野心あらず。只だ己が台湾の土地日本政府の手に奪取せらるるを悲しみ憂うるの可憐なる一片の憂国愛国(台湾島民の抵抗)の心より出しとせば、何ぞそれ感心すべきの至ならずや。・・
 殖民地に於いては社会の制裁薄弱なれば、其影響人民の風俗に顕象す。わが北海道沿岸の村落を見来れば、慨歎に堪えざるもの多し。人は品格を要す。品格は自治の精神より来る。自治の精神なくんば村落の品格なし。・・・殖民地にして所謂小作主義を取り地主のみ多く取て小作の利不利を顧みざるが如くしては、自治の精神を人心に吹き込む事を得る能わず。・・・・小作人とするよりも小地主として少なくとも小土地を与え、自治独立の人とせざる可らず。又教育をせざる可らず。現時は彼等の子孫を奴隷的に養育するが如し。又自作せしめずして小作せしめて之れを疲労し、之れをよぎなく事をなせしむる如きは絶えてよからず。人云う、寛大にせしが為めに失敗せりと。之れ然らず、己の支配の力足らざりしによる。
 彼等は自治を要す。自治の気象を養成せずんばある可らず。民官共に此の心掛けを要す。政府は北海道の政事の方針果して如何かはいざ知らず、兎にも角にも将来自治の方針たるを希望し、又かくあらざる可らず。教育の不完全なる、余の歎ずる処。宗教の等閑せらるるは余の慨する処也。・・・・」
 直寛はさらに、「海外移民論」(前出)でも述べた「新欧羅巴の三個の事実」(殖民地は労工の場所、その繁栄は個人の思想と労働による、自由と干渉的障碍を免かるることで発達する)を、北海道発達の条件として述べたのである。
 この講演内容は、直寛が北光社開拓に託した理想像とみて差しつかえあるまい。ここは民権と国権の両思想が、キリスト教精神によって統一されたコミュニティ(自治区)の姿が描かれている。
 このコミュニティの原型が、1620年に信仰の自由を求めてメーフラワー号で新大陸アメリカへ移住した独立派のキリスト教による開拓にあったことは、想像にかたくない。自営農による平等の、そして精神的支柱をキリスト教に求めたコミュニティの原型は、遠い新大陸のニューイングランドだけでなく、近い北海道樺戸(現在、浦臼町)の聖園農場にもあることに、彼は言及している。直寛は、同志・武市安哉が明治二十六年(1893)に入植開拓(武市は翌年末に病魔に倒れた)した聖園農場に学んで、第二の聖園農場を道東に創設せんとしたのであろう。
 しかしこのコミュニティ計画は、為政者の北海道開発計画と内面的には対立するものであった。
 自由民権の激化運動を鎮圧した明治政府は明治十八年(1885)に兌換(だかん)銀行券を発行し、景気変動をおさえて金融状況を安定させることに成功した。そのため企業熱は高まり、実業家は資本蓄積の場として北海道開発を求め、また皇室や華族らは北海道を「無所有の未開地」として、大土地所有に乗り出した。明治二十年(1887)、北海道庁初代長官岩村は、「人民の移住を求めず資本の移住を求めん」との施政方針を演説した。この結果、一方では従来の官営事業を払下げて本州資本を誘致するのに囚人労働を使用した。他方、明治二十三年(1890)には兵制を改革して、屯田兵の資格を士族から平民にまで拡げ、中央幹線道路沿いの先駆的開拓に当たらせた。
また、これより早く明治十九年(1886)には、「北海道土地払下規則」を定めて、大面積経営に当る華族・官僚・政商に無制限ともいえる大土地を貸し下げた。
 日清戦争は産業資本が大きく発展し、一方農民や商工業者の没落が進み、北海道への資本と労働力の移動が増大した。明治三十年(1897)の「北海道国有未開地処分法」は、農耕適地の未開地を、華族・官僚・実業家へ無償で無制限に払い下げる一方で、農業志望の移民はほとんど、小作農業の小作人の境涯に追い込まれ、自営農業も小作人に転落させた。坂本直寛のコミュニティ論は、これらの大土地所有、小作農場主義の北海道開拓方針に、対抗する性格を持っていた。
 直寛のコミュニティ計画は、殖民会社北光社(資本金九万円)の株主の容れるところとならなかったようで、彼は北光社を去って聖園農場に移り、高知より家族を呼んで信仰と農耕の生活に入るのであるが、当初彼はその生活を北光社で営む予定にしていたのであろう。
 直寛が、自分が社長である北光社をはなれて、聖園に移住した理由について、聖園出身の吉村繁義氏(故人)は、生前次のような意見を寄せてくれた。吉村氏は、聖園に育ち、その後青山学院に学び、満鉄図書館長をへて海外移住事業に打ち込んだ人で、直寛・安哉・前田駒次に接したことのある、昭和四十八年(1973)当時、唯一人の生存者であった。
 「直寛氏は名家の出であり、財産家であったこと。当時の政治家としては英語にも練達した学者であったこと。
生来聖想家肌のひとが、のちにキリスト教信仰に入り、いっそうピューリタニズムになったのではないかと理解しています。中肉の丈高い、そして容貌は日本人ばなれのした立派な品位のあるお顔でした。当時壇上に立つのにフロックコートを手軽に着慣れたことも、ハイカラではなかったかと思います。
 武市の実行の例(聖園農場創始)もあり、推されて社長になっても、経済(観念)皆無で沢本氏(楠弥、のち北光社社長)とくに駒次(前田)を実務者として携行したことで自信づけたのでしょうが、しかしあの草創の困難な不便な未開地(クンネップ原野)に、どうしてもこの貴公子然たる人はふさわしくないし、長い生活にはたえられなかったのだろうし、だが北海道へ移ることは同志との関係もあり、武市の開いた聖園ならば家庭も辛抱して生活できようと考えて、聖園に定住を決意したのだと思われる。そういうことを別の言葉でいえば、宙に浮いた存在と評しても、あたらない批判ではないかと思っています。また実際家でもなかった。まだ移住者の少ない北光社では、沢庵の重しの役も必要がなかったとも考えられます。
 北光社入りの前に聖園教会で一度、北光社から土佐へ帰る途中で一度と、聖園教会で二回講演されたこと、子供ながらも私も覚えています。おそらくこの時浦臼に移住することを有志と相談し〝武市亡きあとぜひ来い″と浦臼有志も勧誘したということも、充分に想像されることであります。」(拙著『鎖塚』)。
 吉村見解に、直寛の聖園移住の真因があるのかもしれない。                

つづく

第八話

明治二十二年(1889)二月十一日、片岡健吉、坂本直寛ら保安条例違反者は、憲法発布の恩赦で出獄、獄中で発病した沢本を入院させるために残った坂本・細川・武市は三月四日に帰郷した。
 発布された憲法について、批判的な態度をくずさなかった土陽新聞は、「固より欽定憲法なり国約憲法にはあらざるなり。・・・・・然れども兎も角も憲法と名けられたる者が誕生したるに相違なきなり。・・・・先ず以て日本が憲法と称する者の之れある国と成りしことを失わざるなり、日本人民が憲法と称する者ある国の人民となりしことを失わざるなり、日本が世界の列国中に於て立憲国の籍に入りしことを失わざるなり(植木枝盛)」と評価し、国会さえひらかれれば藩閥政府の牙城をゆるがせるとの自信を、民権家は抱いた。
 明治二十三年(1890)七月の第一回総選挙は、300人の衆議院議員を選出した。党派別は不正確ながら、自由党系(130)と改進党系(40)で過半数を制し、政府と民党とは予算案の審議で対決した。「民力休養・地租軽減」を要求する民党に対し政府は切りくずしに全力をあげ、その結果、土佐派の幹部を中心とする議員が政府と妥協して650万円の削減で予算は成立した。中江兆民は政府のいいなりになる「軟派」の議会を、「無血虫の陳列場」とののしって議員を辞職し、小樽の「北門新報」主筆に迎えられた。
 これらの妥協に対し、キリスト者の立場からきびしく批判したのが、坂本直寛であった。坂本は自伝『予が信仰の経歴』の第十「予が政事上の思想」に、こう記している。

 「予が従来政事上に於て執り来りたる主義は抽象的の自由主義、即ち厳き個人主義にして国家の興廃は一に此主義の消長にのみ関すと思惟せり。故につとめて急激進歩説を唱導したりき。蓋し予をして玆に至らしめたるには英仏米等の革命史大に興りて力ありき。予が此三国の革命史に就て見し所は革命の因固より一ならずと雖も其遠因する処は唯自由主義の発動なりと思い、其興廃の由て関する処別に無形なる、しかも至大なる一個の能力に係わる者ありとは曽て予の発見し能わざる所なりき」

そして神の導きをえた直寛は、次のようにいう。

 「政事化の最も戒むべきは地位名誉黄白(賄賂)等の誘惑にあり。是等の誘惑は常に政事家に伴う処の者にしてまた能く其陥り易き通患なり。今日我邦政況日々に非なる現象あるは主として政事家が之が誘わるるに由るもの多しと為す。蓋し予既往を回顧すれば予亦此誘惑を免れざりき」

 直寛は告白を敢てして、汚辱の政界から遠ざかる理由を明らかにしたのである。明治二十六年(1893)八月、県会議員の任期満了以後、直寛は議員に再び立とうとしなかった。
 日清戦争は、国権論が民権論を圧倒する画期となった。民権クリスチャン坂本直寛もこれを義戦としたし、内村鑑三も「義戦」として日清開戦を支持した。かっての民権論者で、戦争に反対して国内改革を唱える者はほとんどなかった。 日清戦争は見事なまでに、反政府勢力を挙国一致体制の中に包みこんだのである。
 日清戦後、鑑三は、「其主眼とせし隣邦の独立は措て問わざるが如く、新領土の開鑿、新市場の拡張」という帝国主義的侵略・膨張に走る日本国民を糾弾し、「日本国民若し仁義の民ならば何故に同胞支那人の名誉を重んぜざる、何故に隣邦朝鮮国の誘導に勉めざる」と批判し、以後反戦の姿勢を崩さなかった。
 この点直寛は若干ちがっている。日清戦争と、その後の三国干渉は、彼のナショナリズムをはげしく刺激した。
「(日清)戦後欧米諸国益々東洋政略に其意を用ゆるに至り、特に露国が図南の動作いよいよ我邦人の注意を要すべき時勢と為りたるを以て、予は北海道拓殖の等閉に附し去るべからざるを感じ」(『予が信仰と経歴続篇』第三「予が拓殖事業を発起したる元(原)由」)た直寛は、メキシコをやめて北海道を選定したのである。
 しかし坂本直寛が殖民の理想をして描いていたものは、「海外移民論」でも述べたように「中産階級(自営農)」による「自治区(コミュニティ)」の確立であったことは、彼が明治二十九年(1896)に札幌農学校で行なった演説「北海道の発達」からも明らかである。彼の国権論は、民権論の上に立つもので、国権論を強めたあとも、民権思想は脈々と流れていたのである。

第七話 民権論から国権論へ

明治十四年(1881)八月、『高知新聞』の「吾人は寧ろ自由の櫌乱を取る可し」の論文で、植木枝盛の抵抗権の要求に理論的基礎を与えた直寛は、十七年(1884)の加波山・群馬・秩父のおこった激化事件を、どう考えていたかを知る資料は、まだ発見されていない。
 明治十七年(1884)の直寛の政治行動については、土居晴夫氏が「自由民権運動期における坂本直寛の行動」(『海南史学』昭和四十五年(1970)六月)に、次のようにまとめている。
 明治十七年一月十三日 正午から九反田(高知)紅梅席で演説、「急進家とは誰か」。外に小島稔ら。(「土陽新聞」)二月三日 午後五時から玉江座で演説、「減租論を誤解する者に告ぐ」、外に安芸喜代香、坂崎斌、西森拙三、宮地茂春ら。(同前)
二月二十九日 愛媛県今治で自由党四国大懇親会が開かれ、小笠原鹿太郎とともに板垣退助に随行する。大会終了後、四国巡回委員として、愛媛県、香川県、徳島県を遊説した。(同前)
五月二十九日 長岡郡稲生村津野達太郎方で演説、「進取せよ 進取せよ」。外に徳弘馬域郎、安芸喜代香ら。
(同前)
六月六日 大阪横堀二丁目で開かれた自由党関西有志懇親会に出席。(自由党史)
 昨日土佐郡役所に於いて開会になりし県会議員補欠選挙は坂本南海男氏が九百四十二の高点にて当選。(六月七日付土陽新聞)
六月十三日 午後一時から大阪道頓堀戎座で自由政談演説会が開催され、星亨、大井憲太郎に伍して演説する「諸君は日本の人民となりては如何」。(土陽新聞)
九月十九日 長岡郡白木谷村で演説「自ら病苦を招く勿れ」。
 これらの演説内容については詳らかにはできないが、彼の行動が自由党の主流派を形成した土佐派の範囲から出ていないことが読み取れる。
 当時の土佐派は、ヨーロッパ旅行から帰国して自由党解党の意図をもった党首板垣退助を擁し、関東・東北の困民党・小作党のうえに立つ革命的急進グループと対立していた。明治十七年三月の自由党大会では、最右翼の土佐派は、星亨=植木枝盛の中間派と結んで、大井憲太郎=「関東決死派」の急進グループを抑えた。急進的な民権思想家の双璧とうたわれた植木と坂本だったが、東京を中心に活動した植木が、土佐派から一歩抜き出す活動が出来たのに対し、ほとんど高知ですごした坂本は、左派であっても主流派内から抜け出すことはなかったと見られる。
 合法主義の立場に立った土佐派=主流派は、自由党急進グループによる加波山事件によって、政府の弾圧と世論の攻撃が自由党に及ぶことを恐れ、解党の決意を固めた。直寛がこれにどう対処したか、詳らかでない。
 土佐派を中心にした自由党主流派の解党論の背景には、国権論の抬頭があった。国権論への傾斜は、次の国際情勢によって強まる。国権論は、明治十五年(1882)から始まる清仏戦争と、朝鮮事変(十五年(1882)の壬午の軍乱、十七年(1884)の甲申事変)によって強まる。内治改良を第一に考えた民権家は、初め日・清・朝関係を平和的に調整することを期待した。
 しかし、清仏戦争が列強アジアの危機を身近かなものにし、帝国主義支配の前兆をつげると、この状況への対応策として、列強アジア蚕食の中間入りを主張する福沢諭吉の「脱亜論」に共鳴する民権家も現れた。民権派の人々にも、国内運動のゆきづまりを外に転ずる志向があった。明治十八年(1885)、大井憲太郎ら関東急進派グループが、朝鮮開化派を援助するためとした渡鮮挙兵計画は、未遂に終わったがその一つの現われであった。
 日本の自由民権論は、最初から民権論と国権論とを併せ持っていた。「自由民権運動の高揚期にあっては、国内の民主革命に向かって全力が集中された結果、国権主義への偏向に堕することを免れたが、運動が解体して国内の抜本的改革の望みが希薄になるにつれ、外に対する国権の要求が内に於ける民主主義の要求を圧倒して優勢化する。国内の改良を先とした平民主義さえも、日清戦争の時期にいたってついに対外侵略主義に転換するとともに、藩閥政府への妥協を敢えてするにいたるのである。」(家永三郎『民権論からナショナリズムへ』解題)「明治二十年代にはいって、国権論と民権論との微妙な関係が潜在的な形から顕在的な形に露呈してくるわけであるが、それにしても、この時期の国権思想は、たとえそれがショーヴィニズム(排外主義)の色彩を濃くもっている場合でも、なお依然として国内民主主義へのつながりを保持しており、その点で昭和時代の軍国主義などと非常に違っていることは看過せらるべきでなかろう」との家永氏の指摘は、坂本の国権論を知る上にも重要である。
 坂本は、明治十八年(1885)五月十五日、宣教師ナックスから洗礼をうけ、高知教会に属して各地を伝道しはじめた。彼が、最後の政治活動としてはげしく燃えたのは、三大事件建白運動であった。明治二十年(1887)秋から暮れにかけ、地租軽減・言論・集会の自由、外交の挽回を叫ぶ民権家の声は、井上馨の「鹿鳴館外交」に反対する国権論者と手をくんで激しさをました。「外交の挽回」とは、条約改正の失敗を正し、国権を回復せよとの要求であった。
 建白運動の先頭に立ったのは高知民権派で、総代片岡健吉・坂本直寛・武市安哉ら十六名が携えて上京した建白書には、「もし政府、内に民権を抑圧するも、外に国権を失墜することなくんば、姑(しば)らくこれを忍ぶべからざるにあらずといえども、内にしてこれを抑圧し、外にしてこれを失墜するに至らば、豈これを黙止するに忍びんや」と記され、三大事件の建白運動が、条約改正を軸に国権論に傾いていた事実を明らかにしている。
 この運動では、久しく対立していた自由・改進両勢力が合流する勢いを示し、懇親会・演説会・運動会
(デモ)が昂り、内部の不統一もあって政府は危機感を深めた。
 十二月二五日、政府は保安条例を発布して、集会や群衆を禁止解散させ、治安を妨害するおそれのある五百七十余人を、皇居三里以外に退去させた。高知からの上京者二百余名が退去を命ぜられ、うち*片岡健吉、西山志澄、※武市安哉、山本幸彦、細川義昌、*坂本直寛、黒岩成存、今村弥太郎、*沢本楠弥、前田岩吉、中内庄三郎、※土居勝郎、楠目馬太郎、山本繁馬、溝渕幸馬、*傍士(や)次(どる)の十六名が退去を拒否して逮捕された。また、一旦横浜まで退去した*安芸喜代香・横山又吉・長沢理定・黒岩一二・門田智も再び上京して逮捕され、都合二十一名が東京監獄署石川島分署に投獄されたのである。(*印は後の北光社、※印は後の聖園農場関係者)条約改正反対運動は、息をひそめていた民権派勢力を勇気づける一方で、ナショナリズムの傾向を強めるきっかけとなり、以後民権派と保守派との提携を可能にする条件を作った。

                                          つづく

第六話 直寛の「海外移民論」

日清戦争直後(明治二十八年(1895)内か)に書かれたと思われるこの未発表草稿(直寛の孫直行氏の好意で借覧)は、美濃紙に墨筆で二三字詰二〇行に書かれたもので、次の八節から成っている。
(1)日清交戦は我邦人に海外雄飛の一大好機を与えたり
(2)我邦人戦後処する覚悟一般
(3)我邦人海外移民の必要
(4)殖民は文明進歩の一大動力也
(5)西半球に大いなる殖民地多し
(6)墨西哥(めきしこ)に於ける殖民地建設の計画
(7)殖民事業と宗教
(8)余が墨国殖民事業に関する理想

 次に坂本直寛の原文を出来るだけ生かしつつ、彼の海外移民論を紹介することにする。(下線・括弧内筆者)
(1)では、「蓋し我邦が世人の意想外の此大捷の栄を博したるは、天皇の稜威 と軍隊の忠雄(勇)、其平生の練育軍紀の厳粛策の妙効及国民愛国心の一致等に職由する」と記し、「此交戦は抑我邦の義に出づ。其交戦の目的たる清国をして朝鮮の上に干渉するを絶たしめ、以て其独立を確認せしめたり」として、当時の民権家を含むほとんどの国民と同様、日清戦争を「義戦」としてとらえている。そして「吾人が世界に雄飛して大業を計るを以て大和民族の膨張を計る一大好機を得たり。・・・・・宜しく孤島的な小心を捨て世界的な大志を興すべきなり。今其機既に至れり。其機既に至れり。誠に看よ彼の十字軍の一挙か。」と、海外雄飛を熱っぽく訴えている。
(2)では、「我邦人が戦後に処すべき道一にして足らず。或は云う。大いに陸海軍を拡張して将来の世変に備うべし。或は云う、政事を改革して愈立憲政体を完美ならしむべし。或は云う、大いに教育の進歩を計って国家独立の精神を涵養すべし。或は実業の発達を大成して国民富強の基を確定すべし・・・・・」などを上げ、「今余は之を言わず」とした上で、「大いなる日本を世界に膨張させるべき也。予は此偉業の一つとして海外移民を企図せんことを希望する者也」と述べている。
(3)では坂本龍馬の雄飛思想に似た航海論の角度から述べている。
「今や我邦は征清の一挙ありし以来、大いに船舶を増加せり。宜しく之を以て航海通商殖民事業の為に用ゆべきなり。海外殖民地の発達は、航海通商の事業をして益拡張せしむ。我邦人は征清の余勢と其精神を以て、更に世界に向て是等の事業に従事すべし」とし、「今後世界に対して平時の事業を拡張して又優勝の位地(置)を占めんことを競争すべきなり」としている。
(4)においては、新世界(殖民地)を、政治改革の試験場として利用せよ、と次のように述べている。
「英国の如きすら、猶有名なる法律及政事(治)上の改革を行うに当て、豪州の恩恵を蒙ること少しとせず。
そは豪州に於て始め之を試験し、後ち漸く之を母国に採用すれば也。彼の貧民に投票権を与え、或は失費と手数を要せずして土地を購う便利をこれに与え、或は貧民の為に最も貴重なる法律を作る等の如きは、皆新世界より英国に入輸(輸入)したる賜と云うべき也。」又、英国に於て久しく恥辱たりし死刑公行の廃止の如きも、先ず豪州に於て之を行い、而して後母国漸く其例に習いたるに過ぎざりき」と述べ、その末尾を、「殖民事業、豈唯児孫糊口の為のみならんや」と結んでいる。
(6)では、メキシコが殖民地として適している経済的理由をのべた上で、この国が中等社会を欠くため「上等社会即ち富豪の民族独り専ら威権を恣にし、・・・・自由独立の実ある国と云うべからず。是れ余が同国を以
て我邦の殖民に適当せる土地と為す由縁(所以)也」としている。
(7)では直寛は、英国植民地が「独り長足の発達を為したる」理由として、「第一、殖民地は必ず労働の場処たるべく、決して遊惰の場処たるべからざる事。第二、殖民地の繁栄は多忙なる個人の思想と労力との任務ありて、決して遠方よりの力に由りて機関を使うが如きものにあらざる事。第三、殖民地は或る行為の自由あること無く、干渉せらるることに由りて進歩し能わざる事」の三点を上げ、「殖民地の衰朽する其元(原)因多くは、殖民徳性に乏しくして浮世的の快楽を愛し、博奕飲酒淪色等の悪行を為し、漸く懦惰に流れ精神衰微し風俗壊乱し、平和一致を失い以て殖民地を堕落するにあらざるは莫し」と、ピューリタン的な殖民意図を明らかにしている。そしてその模範的事例として、「遠く外国の例を引用せずとも近くは北海道の殖民地に於て現る」と次の例を上げている。
 「故武市(安哉)氏が開きたる農場の如き、宗教が如何に其新団体を保つかを知るに足る。彼の篤信に由て組織したる月形村の一団は其風俗のみならず、事業場の労力に於いても他の村落と異なる処ありて、其発達速かなるものあるは、北海道人の親しく知る処なるべし。是れ唯其組織法の宜しきのみならず、宗教の練育大に殖民の精神を養い、風俗の純良潔白に保ち、以て殖民をして至大なる希望を将来に抱かしむる所以也」としている。
結語の(8)において直寛は、殖民事業の理想像をかかげる。
 「共和政治の国民なりと雖も、其実猶自治たるに至らずして専制治下の状態依然として存在す。此国民を啓発せんには、第一多数の人民をして自治の気象を喚発せしむるにありとす。故に余の希望する処は、若し我邦の殖民地幸いにして発達するに至れば、自治区を設立して彼の国民に一般行わるる処の飲酒怠惰の陋習に反せる厳粛槿(勤)勉の良風を点じ、自ら始め自ら治めて以て国民自治の基を開き、他の殖民地及び土民村落の好模範と成り、以て建国の骨髄たるべき健全なる中産社会を建設するの模形(型)を造らんこと是なり。・・・・蓋し余が意、クライブ・コルテス等の如き野心あるに非ず。唯々平和の手段を以て理想を行わんのみ」とした。

 以上の「海外移民論」は、北光社移民の思想的基盤を明らかにするものとして重要であるだけでなく、自由民権論から国権論に大きく傾斜した直寛の思想的変遷を知る上に、きわめて重要である。
 坂本直寛の著書のほとんどを網羅した唯一の刊行物である『坂本直寛著作集』(土居晴夫編)は、自由民権の激化事件が頻発した明治十七年の一篇(「減租請願の主旨を誤解する者に告ぐ」土陽新聞)後、明治二十三年九月第一回総選挙後の「自由改進両党之諸氏に徴衷を呈す」(土陽新聞)までの六年間、一篇も記載されていない。
 さらにはまた、明治二十三年(1890)十月以降二十九年(1896)二月の北光社開拓を片岡健吉宛書翰に託するまでの六年間、一篇も記されていない。
 この「沈黙」の十二年間こそ、直寛が民権論から国権論へ、政治家からキリスト者へ、政治で追及して挫折したものを殖民開拓で生かそうと、思想的に苦悩した時期ではあるまいか。
 自由民権思想家中最もラジカルな共和制を志向していた直寛が、「天皇の稜威」を説くに至る過程に何があったのだろう。「専制の治安」より「自由の擾乱」を採るとした直寛が、「厳粛勤勉」で「飲酒怠惰の陋習」を破った殖民を理想としたのはなぜだろうか。これらの疑問について、次章でふれてみたい。

第五話 直寛らが起草した「日本憲法見込案」

「日本憲法見込案」が初めて鈴木安蔵著『自由民権・憲法発布」(白楊社版・近代歴史講座第3冊)に紹介されたのは昭和十四年(1939)である。検閲の為「結社・集会の自由」(三五条)、四九条から九三条にいたる「帝室」に関する項、「国会は帝位を認定す」(九五条)の外五条も削除されたものであった。この草案は、多分政府の密偵が立志社からひそかに入手したものらしいと、戦後鈴木安蔵は『自由民権』(昭和二十三年版)で述べている。
 この立志社の「日本憲法見込案」は、鈴木によって紹介されるまでは幻の私擬憲法草案とされ、後述する植木枝盛の「日本国国憲案」が立志社の「見込案」の成案ではないかとの意見が有力であった。
 しかし大著『日本憲法成立史』の著者稲田正次は、立志社憲法成立過程を「明治十四年三月頃までに土佐の立支社の坂本南海男氏らの手によって日本憲法見込案が作成されたのであるが、同年八月に至って、その草案は植木枝盛によって改稿せられ、それが九月社内の討議に付されて承認され、かくて植木起草の日本国国憲案が立志社の成案とされるに至ったのである」としている。
 また高知の碩学平尾道雄は、その著『自由民権の系譜─土佐派の場合』(昭和四五年(1970))で、「前者(日本憲法見込案)は主として坂本南海男によって起草されたもの、後者(日本国国憲案)は植木枝盛がこれを改稿したもの」と述べている。稲田・平尾とも、植木が明治十四年(1881)八月一日に「高知新聞」の主幹となり、八月四日のその日記に「立志社に往く。憲法を講す」同二十八、九両日「大風雨幽居、日本国憲法を草す」、九月十九日には「立志社に往く。憲法読会」と記したのが、植木の起草過程だとしている。
 さて、坂本直寛が広瀬為興・山本幸彦とともに、立志社から命ぜられて起草した「日本憲法見込案」には人民主権の宣言規定はないが、立法権は国会に属し(二六条)、「国帝は二たび国会の議決を拒むことを得ず」(五九条)として国帝の権限を抑制し、人民主権を具体化している。また国会は条約承認権(六六条)と宣戦講和の権(七二条)を持つなどその権限は広汎で、特に「国帝は他国に転籍寄留する事」(八二条)と「反逆重罪に因て其位を失す」(八三条)ることを規定し、国帝の不可侵特権を認めず、かなり徹底した人民主権の原則を採った。
 このように「人民主権主義の下における弱い君主制をみとめている点において、この案は日本国憲法の先駆的位置を占めるもの」(稲田正次『明治憲法成立史』上)と評価されている。事実、終戦直後、鈴木安蔵は「立志社草案」を参考にして、「憲法研究会」の「憲法草案要綱」を起草した。この要綱は、GHQ民生局にとり上げられ、原稿日本国憲法作成に生かされたのである。

第四話 坂本直寛の自由民権思想

坂本直寛がその生き方と思想について、父高松順蔵と叔父坂本龍馬の二人から、強く影響を受けていたことは前述した。
 直寛が明治九年(1876)に立志学舎に入る前の「英学を志し県立学校に入り後東京に遊学」時代の思想は、わかっていない。この時代に、植木枝盛と同様、明六社の啓蒙主義から欧米の政治思想への関心を深められていたことも推測される。たとえば、明六社のイデオローグの一人津田真道の、「国の本は民なれば、君は末なること明らかなり」(『明六雑誌』八号)など、啓蒙思想は儒学の革命思想に次いで直寛の思想形成を助けたのではあるまいか。 
 「自由民権思想は、儒学的仁政・公議思想から啓蒙思想へという思想的流れに乗って形成され」だが、「政府は人民の幸福のため設けたものという同じ言葉が、啓蒙思想にあっては為政者の心構えとして説かれ、民権思想にあっては在野国民の権利として使われ」(遠山茂樹「自由民権思想と共和制」)たのであり、直寛も枝盛も啓蒙思想から民権思想への飛躍を、人民の抵抗権・革命権としてとらえた。
 坂本直寛の最初の論稿は、明治十年(1877)の『海南新誌』(九月、六号)に、才谷梅次郎の筆名(叔父龍馬の才谷梅太郎になぞらえた)で「政論」として発表された。「其れ顚覆は必ずしも直接に圧制に因るに非ず。圧制なきも猶生ず。其の生ずるや則ち政府人民の進歩に後るるの時にあるなり」と。これは、啓蒙思想をこえた革命思想の展開であった。革命は「人民の進歩」によって必ず生まれるとする直寛の思想は、その後の彼をして終生人民の教育に力をつくす生き方を貫かせた。
 明治十二年(1879)、直寛は福沢諭吉の『通俗民権論』の、「蓋し国に在て民権を主張するは外国に対して国権を張らんがためなり」との説を駁して、「外国に対して国権を主張するは内国の民権を増長せんがためなり」と訂正すべきだとした。
 直寛は上からの国会開設に反対し、「国会請願者は今後何等の手段をなすべき乎」(明治十三年(1880)八月『愛国新誌』)で、次のように述べている。
 「嗚呼請願者よ、吾人今後の策は各地各個の請願を止め、更に大いに天下の公衆と協議し、全国人民の過半数を得て進んで私立国会を設くるにあるべし」
 直寛は全国人民による下からの私立国会の設立を目指したのである。
 明治十三年(1880)六月、直寛は小島稔(直寛の妻鶴井の名義上の養父)とともに、婦人参政権の実現に尽力し、彼が住む土佐郡上街町会規則に二十歳以上の戸主は男女を問わず選挙権を持つ規定を挿入することを、県令北垣国道に認めさせた。叔父龍馬と同様、婦人尊重の思想を抱いた直寛が、婦人参政権の運動を指導し成功させたのである。
 この上街町会の婦人参政権条項は、隣接する小高坂村村会規則にも波及したことが、『高知新聞』に報道されている。また、『土陽新聞』がまとめた「小歴史」(明治三十二年(1899)七月十九日)には、「その議員選挙の際は男子にして婦女に投票したるもの少なからず」と記し、日本国憲法による男女平等・婦人参政権が現行憲法規定より六十七年前に実施されていたことを伝えている。(この点、外崎光広『植木枝盛と女たち』にくわしい)
 直寛は植木枝盛とともに、圧政政府に対する人民の抵抗権を力説しただけでなく、共和制の到来を主張した点で、日本の自由民権思想家中出色の人物であった。直寛の進歩性は、英国自由主義思想家、とりわけスペンサーに学ぶところが多かったことは、直寛の説論中スペンサーの論を引用することが多いことにも示されている。
 坂本南海男がスペンサーに傾倒したことについては、「土陽新聞小歴史」(明治三十二年同誌に掲載)が、次のように伝えている。
 「坂本氏は明治初年より英学を研究し、広く欧米の政理書並に政治史に通暁し、ミル、ベンサム、スペンサー等の著書は其最も愛読翫味せる所にして、殊にスペンサー氏の著書の如きは、当時我国中央都会の学士すら未だ之を閲読せしものなく、且つ同時代に於て始めて之を購読し之を訳述して広く天下に紹介したるものは松島剛氏の権利提綱なりしが、坂本氏は之に先んじて原書に依りて既に此書を立志社講堂に講述し、板垣君初め立志社先輩諸氏が曽てベンザム、ミル等の政論に慊焉たるものありしも、一たびスペンサー氏の説を知りて大いに自家の持論を確かめ、自由民権の議論をして更に一段の光輝を発せしむるに至りたり云々」
 明治十四年(1881)の「政論」(前出)でも、直寛は述べている。「スペンサー氏曰く、夫れ政制は文明の或る度を表する者なれば、敢て之を恒久肝要のものなりと云うべからず」と引用したのち、「今日現に此の有様を表するは、即ち君民共和政治の類是れのみ」と述べ、「されば君主政権を有する権理(利)あらば人民も亦之を有する名儀なかるべからず」「国民の自由は物理天道の自然より有するものにして、決して君主より授る者にあらざるなり」と、君主主権に対して人民主権の思想を明らかにした。
 また、「世の政府ややもすれば富国恤民の為なりとて、人民の私事に干渉して奇々妙々の条例を設る事」「これ社会の元(原)理に戻りたるもの」と述べて、儒学的・明六社的仁政論を批判した。
 政府高官をして「フランス革命の前夜」とおびえさせた明治十四年(1881)の四月十七日、坂本直寛は高知新聞主催の政談演説会で革命論を展開した。この日、板垣、片岡、武市ら九人の出演で、場内は婦人を含む入場者で立錐の余地もなかった。直寛は「吾人は寧ろ自由の櫌乱取る」と題する演説をし、その内容を後日『高知新聞』に掲載した。この中で直寛は、「専制の治安は、治安にして治安ならず。自由の櫌乱は、櫌乱にして櫌乱ならず。
また専制の治安は社会の開明に益無きも自由の櫌乱はかえって国家を進歩せしむる」と、「自由の櫌乱」すなわち革命を支持した。
 当時、啓蒙思想はもとより自由民権家の中からも、イギリスやフランスの革命における「惨劇」をとらえて、「革命は社会秩序を破壊する」との批判が、政府及び保守派に妥協する形で出されていた。もちろん民権家の中でも中江兆民や馬場辰猪らは、「惨劇」の責任は圧政政府にありと反論した。しかし直寛は、兆民・辰猪らの革命論をさらに前進させ、「革命は圧政に職由せず」「施政の度人民思想の度に相必適するを得ざる所あるが故」革命は起こるとし、「今日我邦の人民は既に世界の経験を熟知せる」ゆえ、「千七百九十年間の仏人の如き拙策を為すこと」はないとした。そして改革は「平和に出でざれば平和に出る」と述べ、「吾党は五帝三王の治を望まんよりは、寧ろ千七百年代の仏国の乱を慕う」(「革命を論ず」)と、革命論を前進させたのである。
 直寛が民権家中その思想を最も突出させていた共和制志向の自由民権思想も、明治十四年の政変以降後退を示した。政変の中で出された「10年後立憲制」の詔勅は、民党・民権家をして国会開設への準備に没頭させ、政府並びに改進党からの共和論非難に対し、自由党は尊王論・立憲君主制を以て防ぐのに専念したからである。
 この思想的後退は、自由民権思想が実践的運動との結合なしに進められたところに、最大の原因があった。
「自由自治元年」を標榜した秩父困民党の蜂起は、共和制論が最も昂ぶりを示した明治十四年(1881)から三年後のことであり、土佐派の直寛や枝盛の抵抗権、革命権の理論は、秩父困民党によって実践に移されたものである。
 しかし直寛の共和制的民権思想は、観念的な弱点を持ったため、その後の民権思想に与える影響は、必ずしも大きくはなかった。だが、今から百年前の自由民権思想が共和制を内包していたことは、自由民権運動が豊かな可能性を示していたことになろう。そして直寛が新たな理想を掲げてその生涯を賭けた北光社移民の中に、この民権思想がどう反映しているか。これを探究することは、重要な課題といえよう。

第三話 坂本直寛の自由民権運動

明治二年(1869)、高松南海男(十六歳)は伯父坂本龍馬の兄、権平の養子になった。龍馬が殺されてから二年後のことである。
 坂本家での南海男は、養母仲(四十歳)、叔母独(三十八歳)従姉春猪(二十七歳)、春猪の子鶴居(五歳)、同兎美(四歳)の七人暮らしだったが、二年後養父権平が他界し、十八歳の南海男が家督を相続した。
 南海男が明治九年(1876)に立志学舎で学ぶまでの経歴は詳らかではないが、「英学を志し県立校に入り後東京に遊学し」(山本秀煌『日本キリスト教会史』)との記述から、英学に専念したことが推測される。「東京では攻玉社に学んだ」と、直寛の長男、直道が語っている。土佐「立志学舎勤怠表」には明治九年(1876)7月に南海男の氏名が記されている。彼の出席率は高く、成績は数学より読方にすぐれていた。
 明治10年(1877)、南海男が最上級生に進んだころの立志学舎には、103名が在学し、その中にはのちに民権家として名をなした大石正己、傍士(ほうじ)了、江口三省、宮地茂春、小笠原鹿太郎らがいた。立志学舎の教育内容は高度で、教科書にはベンサムの法理書やミルの自由之理、ウールセーの万国公法などの原書が使用され、坂本の思想形成に大きく影響した。とりわけスペンサーの著書を好んだ坂本は、『社会平権論』や『代議政体論』など、まだ、日本で読まれていない原書をとり寄せて愛読し、ベンサムやミルの理論にあきたりなくなった、という。後年新聞記者になった坂本は、随所にスペンサーの著書を引用し、彼への傾倒の深さをうかがわせた。
 坂本南海男の名が自由民権運動に出てくるのは明治十年(1877)六月で、西郷隆盛が挙兵し西南戦争が戦われている最中であった。立志社内にも西郷軍に応じようとする国権論的挙兵派と、明治七年(1874)の民撰議院設立建白書をさらに強めた国会開設を要求する民権派とがあった。六月立志社は総代片岡健吉の名で、京都の行在所に建白した。世にいう「立志社建白書」で、政府への鋭い批判でつらぬかれ、国会開設と地租軽減、不平等条約撤廃の民権運動の三大綱領が明確にされていた。政府は受理を拒否したものの、建白書はたちまち流布された。
 六月二十三日の稲荷新地演劇場における立志社の演説会に集まった者四千、うち半分は入場できない状態で混雑甚しく、中途で閉会するほどだった。坂本は政体改革を訴える演説を行い、その後も、地方政社嶽洋社にも、所属し、立志社・嶽洋社、全国組織である愛国社(明治十一年再建)、自由党(明治十四年結党)などが主催する演説会に登壇し、自由民権運動の活動家になった。
 明治十年(1877)七月、立志社機関誌『海南新誌』が発刊されるや坂本は編集に加わり、又同時に発刊された『土陽雑誌』の発行人になり、その後両誌が合併した『土陽新聞』のほか、『大阪日報』『高知新聞』にも、自由民権の筆陣を張った。その内容は、政府に対する人民の抵抗権や共和主義思想を含む急進的なものが多かった。
 この頃から植木枝盛との交流が深まり、二人は互いに訪ねあい、また同じ演壇に立つことが多くなり、互いに裨益しあった。英書をひもとかなかった枝盛にとって、南海男はまたとない「相棒」(家永三郎『革命思想の先駆者』)であった。
 植木枝盛は安政四年(1857)、土佐国土佐郡井口村(現高知市中須賀)の「中等藩士」の家に生まれた。坂本南海男より四歳年下である。明治十一年(1878)、植木家は小高坂村(現在高知市内)に移籍している。
 枝盛は明治五年(1872)、県庁が新設した致道館で儒書のほか翻訳書をも併読し、福沢諭吉の『西洋事情』に啓発されて啓蒙主義に魅かれた。翌年、東京の海南私塾に給費生として入学したが、フランス人教師による陸軍士官の予備校的な性格に反ぱつして退学した。「洋学校に籍をおきながら終生横文字を読まなかった事実に徴すると、あるいは外国語の学習に手を焼き、口実を他に設けて退学を敢行したのではあるまいか」(家永三郎『植木枝盛研究』)と見られている。しかし植木は、「原書の代わりにめぼしい翻訳書を片はしから読破することにより欧米のブルジョアーデモクラシーの精神を的確に自分のものとすることに成功した」(前掲出)のである。
 枝盛は帰郷した高知で板垣退助の演説を聞き、「頗る慷慨心を惹起して」(『植木枝盛自伝』)自由民権運動に参加した。翌明治八年(1875)に再び上京した枝盛は、板垣の娘の家庭教師になり、板垣家に住みこんだ。
 東京滞在中の枝盛は、新聞投書家として思想活動に参加したが、その思想は概して穏和な開明主義で、権力と直接対決するものではなかった。しかし、たまたま『郵便報知新聞』に投じた「猿人政府」から筆禍事件を生じ、枝盛は獄中において言論・思想の自由と、これを確立するためには抵抗権と革命権が必要だとする民権思想に成長した。彼が民権演説を始めたのは、この筆禍事件後であった。
 明治八年(1875)の大阪会議で参議に復した板垣と離れていた枝盛は、七か月後に下野した板垣の「蔭法師の如く秘書官の如く」板垣と意気投合した。明治十年(1877)、枝盛は板垣と高知に帰郷し、愛国社再興から自由党結成へと民権運動の全国的展開に、板垣の手足となって奔走した。この枝盛に最も大きな思想的影響を与えたのが、イギリス自由主義思想に秀でた坂本南海男であった。すなわち、枝盛の抵抗権・革命権の思想は、南海男のイギリス流共和主義思想によってさらに確固たるものにされたのである。
 明治十二年(1879)十一月、大阪での第三回愛国社大会は国会開設願望を当面の運動方針とし、全国的請願斗争へと発展させた画期的な大会となり、参加した坂本南海男は東京を経て北陸を遊説して廻った。
 明治十三年(1880)、国会開設請願運動はピークに達し、三月に大阪で開かれた第四回愛国社大会には、二府二二県の代表96名が約10万名の請願委託者名簿をたずさえて参加した。96名中40名が土佐派であることで、土佐立志社系主導権維持にかける熱意を示した。この年九月、南海男は養家先の義妹鶴井(十六歳)を小島稔の養女として妻にした。同月「自然法は人作法の拒防す可きにあらず」を演説した直後、板垣退助に随行して上京した。
 この四月、土佐派が主導権を握る愛国社からはなれて国会期成同盟が結成され、これを恐れた政府は集会条例を発して弾圧した。しかし第二回国会期成同盟大会は十一月十日東京で全国13万名の委託をうけた代議員によって「国会を開設する允可(いんか)を上願するの書」を起草した。又翌年十月東京に再開し、各社が憲法見込案を持参す
ることを決めた。この大会に、立志社は坂本南海男と山田平左衛門を派遣し、憲法見込案起草委員に坂本南海男、広瀬為興、山田幸彦を指名した。
 この年十月に出た「明治民権家合鏡」という相撲見立て番附表には、行司に片岡健吉、東の大関に板垣退助関脇に箱田六輔、小結に坂本南海男がランクされ、彼の活躍が世人の眼を惹いていたことを語っている。
 明治十四年(1881)は全国政社で私擬憲法の起草が進んだ。しかしその内容が最も急進的だったのは、立志社の「日本憲法見込案」と植木枝盛の「日本国国憲案」だった。二つの憲法私案については、次節で詳述する。
 この年政府の弾圧は強まり、六月十一日の仁井田村演説会は聴衆が溢れたが、南海男の演説は警官に中止を命ぜられた。また同月十五日の立志社演説会でも、中止させられた。
 この七月、北海道開拓使官有物払下げ事件で世論は沸騰し、政府内からも大隈重信などの官有物払下げの非を鳴らす者が出るに至った。巡幸中の天皇が急遽帰京した翌十月十二日、官有物払下げ処分の中止と、きたる明治二十三年(1890)をもって国会をひらくという詔勅と、大隈の免官が発表された。明治十四年の政変である。
 十四年政変の直後十月末に、板垣退助を総理に土佐派が主力となって自由党が結成された。
 明治十五年(1882)五月七日、海南自由党が結成された。結成に当ったのは片岡健吉で、坂本南海男も創立委員として県内各地を遊説し、演説会はどこも盛況を極めた。しかし官憲の圧迫も強く、七月十六日高知新聞は廃刊し、「新聞の葬式」を行った。
 十一月、将来の政党政治の指導者を目ざす自由党総理板垣退助と後藤象二郎は、政情視察のためヨーロッパへ向かった。そのころ、福島の自由党は大弾圧をうけようとしていた。この外遊費が実際は政府より出ていることを自由党と対立する改進党系新聞が暴露し、渡航前の九月には、立志社を代表して坂本南海男と小島稔が上京して、板垣に翻意をすすめた。反対を押し切って板垣は出発したことで、自由党の有力幹部田口卯吉、大石正己末広重恭、馬場辰猪らが脱党した。この間坂本は、中江兆民、河野広中(福島県自由党領袖)、植木枝盛らと会談する。
 明治十六年(1883)、『土陽新聞』連載の絵入小説「汗血千里の駒」(坂崎斌)は、最終回に坂本南海男を取り上げた。
 「坂本の家督を継ぎし小野淳輔は龍馬の甥にして前に高松太郎といえる者なり。現に宮内省に奉職せり。因に説く、此の淳輔の実弟南海男は龍馬の兄権平の家督を継ぎて坂本と名乗りけるが、夙に立志社員となりて四方に遊説し人民卑屈の瞑夢を喝破するに熱心なるが如き頗る叔父龍馬其人の典型を遺伝したるものあるを徴すべく、或は之を路(ル)易(イ)第三世奈波侖(ナポレオン)に比すと云う。」

 この年三月、高田事件が起きる。
 明治十七年(1884)は自由党内の急進派(大井憲太郎・宮部襄ら)を中心にした急進グループの指導で、群馬事件、加波山事件が起こり、さらには十一月困民党に結集した約1万の農民と秩父自由党とが結合した農民蜂起秩父事件がおきた。
 士族や豪農中心の土佐派などの自由党主流派は、これらの激化事件を危険視し、自由党を解党してその累の及ぶことを避けんとした。秩父蜂起の三日前の十月二十九日、自由党は大阪で解党を決議した。結成の日からちょうど三年目のことであった。自由党切っての急進的理論家である坂本南海男が、激化事件を支援した形跡は見当らない。この年二月末、愛媛県今治での自由党四国大懇親会や、六月の大阪での関西有志懇親会に板垣とともに参加した坂本寛は、主流派の枠からは出ていなかったのであろう。
 この年の十二月、南海男を改め直寛を名乗る。明治十八年(1885)五月、坂本直寛は高知教会でナックスより洗礼をうけ、これ以後政治活動と基督教伝道との両方に携わった。
 自由党解党後、自由民権運動は敗北の一途をたどったが、明治二十年年(1887)、三大事件建白運動で、気勢を上げた。三大事件とは、地租軽減、言論・集会の自由、外交の挽回である。政府の条約改正失敗に力を得て、内政批判を噴出させた民権派は、久しく対立していた自由・改進の両勢力が合流する形勢をしめすに至った。
 前年土佐郡より植木枝盛とともに県会議員に当選していた坂本直寛は、この年二月には物部川堤防修理に関する知事の処分を不服として、武市安哉とともに内務大臣に陳情、帰郷しては報告会を開くなど奔走し、九月に事件の解決をみたが、一方では六月の演説が治安に害ありとされ、一年間の県内演説禁止の処分をうけた。
 十月、三大事件の建白委員として片岡健吉、武市安哉、細川義昌、山本幸彦らとともに上京し、十二月二十六日星亨宅に代表委員として会同し、総理大臣面会を協議した。しかし政府は、保安条例を発布し、一年乃至三年間皇居から三里以外への追放を570余名に命じた。片岡健吉ら21名は、退去を拒否してただちに軽禁錮三年に処せられた。彼らは明治二十二年(1889)二月の憲法恩赦まで東京監獄署石川島分署に投獄されたが、その中には、のちに聖園農場・北光社に関係する者が多くいた。
 投獄された坂本直寛は、高知県議の身分を剥奪されたが、獄中で聖書を読み、安芸喜代香を入信させ、開拓の夢を描くなど信仰を深めた。
 明治二十二年(1889)二月に出獄した直寛は、その夏妻鶴井を溺死で失った。翌年県議補選に当選したあと、中沢翠と結婚。明治二十四年(1891)に、再び県議に当選、翌年の二月の総選挙で品川弥二郎内相が指揮する自由党への干渉と戦って勝利する。だが、直寛の自由民権家としての運動は、三大事件建白運動以後次第に後退し、明治二十六年(1893)に県議の任期が満了した以後は政界の表面に出ず、その情熱は基督教伝道に注がれた。

第二話 龍馬の蝦夷地開発計画と思想

北海道開拓は、直寛より早くすでに叔父龍馬が企図するところであった。
 龍馬の父八平直足は、潮江村郷士山本家の出身で、のち坂本家をついだ。この山本家からは沢辺琢磨(函館でニコライから受洗した日本最初のハリスト信者)や、武市半平太の妻・富や、立志社員宮地茂春らが輩出している。
 八平の長男で龍馬の兄の坂本権平が養子にしたのが高松南海男で、のちの坂本直寛であった。龍馬と直寛とは血筋上と養家先との両方で、叔父、甥の関係であった。また、北光社の出資者の安芸喜代香も、権平の妻の妹の子で、直寛とは義理の従兄弟同志であった。喜代香は自由民権家として直寛と行を共にしたあと、直寛のすすめでキリスト者になり、また直寛とのあとをついで北光社二代目社長になり、北光社を訪ねている。
 龍馬は坂本八平の次男で、三人の姉(千鶴・栄・乙女)と兄権平らの末弟として、天保六年(1835)に生まれた。父八平は、郷士に次男に生まれた龍馬を、江戸に出して剣術修行をさせ、ゆくゆくは町道場主として生涯喰っていけるようにとの親心を示したが、この江戸修行が龍馬の非凡な素質を育てることになった。
 高知城下築屋敷に住む郷士出身の日根野弁治から小栗流剣術を学んだ龍馬は、嘉永六年(1853)黒船来航の年に、十八歳で江戸に出た。京橋桶町の千葉定吉道場で北辰一刀流を学んだ龍馬は、城士・郷士の差別がきびしい高知とはちがう、開放的な空気をも吸収した。五年後の安政五年(1858)、龍馬は北辰夢想流と小野派一刀流の免許を伝授されたがその免許状には千葉佐那女ほか二名の女性の名が記入されていた。龍馬が婦人と肩を並べて京都の街を歩くほど女性を尊重したのは、千葉道場の開放的雰囲気の影響かも知れないという。
 この年一旦帰郷した龍馬は、築屋敷在住の絵師河田小龍に師事した。小龍は、アメリカに漂流したジョン万次郎(孫の中浜明氏は元紋別に在住)を取調べた人で、自由な通商航海の必要性と、志を抱く下等人民の力に依拠することの重要性とを、龍馬に教えた。龍馬は師小龍との別れにあたって、「人を作ることは君これに任じたまえ。吾はこれより船を得ることを専らにして、かたわら其人も同じく謀るべし」と語った(小龍『籐陰略話』)。
 龍馬が長崎で海援隊を組織するや、小龍門下から饅頭屋の倅近藤長次郎(別名、上杉宗次郎)や医師今井純正(別名、長岡謙吉。海援隊書記)らが参加した。通商航海策と平民思想と海援隊結成とは、河田小龍から学んだ思想・経論を、龍馬が育て実践したものであった。
 龍馬の北海道開発計画は、三十余年後の坂本直寛の北光社拓植移民の先駆的な考え方とうけとめられる。海援隊を組織した龍馬が、浪人集団による蝦夷地開発の計画を立てたのは元治元年(1864)で、この年起きた池田屋騒動と禁門の変によって、この計画は実行されるに至らなかった。
 慶応二年(1866)、龍馬は薩摩藩を説いて洋型帆船大極丸を手に入れていた。買主は兵庫の商人海屋与三郎、請負人は長崎の小曽根英四郎、周旋人は亀山社中(海援隊)の高松太郎(南海男の実兄)で、代価は一万二千両
であった。この船を龍馬が、北海道開発計画に利用する予定であったことは、彼が慶応三年(1867)三月、河田小龍に協力を依頼した手紙に、「この度すでに北行の船も借りうけ候。その期限は三月中旬より四月朔(ついたち)日には多分出帆仕りたく」と記されていることかた明らかである。この第二次蝦夷地開拓計画も、船価支払いに難渋したため、船は長崎に回航されてしまい、ざ折した。
 この直後、龍馬は薩摩の海軍にいた林謙三に宛て、「私し汗顔の次第」「大極丸の一条ヘチャモクレ(不調に終わる」の国言葉)」と手紙を出し、両人の間に蝦夷地開発の話が通じていたことをうかがわせた。龍馬は、薩摩の武力討幕断行を予見し、国内戦で失う人材を蝦夷地に送り込み、開拓を進め、さらに海軍術を育成すべきだと林謙三との間で論じていた、という。(平尾道雄『海援隊始末記』)
 直寛が龍馬からうけついだと思われるものに共和思想がある。慶応三年(1867)六月九日、長崎から兵庫に向かう船中で龍馬が述べ、長岡謙吉が記述したのが「船中八策」である。船中八策は、「天下の政権を朝廷に奉還せしめ」の第一条から始まり、「上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛せしめ、万機よろしく公論に決すべき事」(第二条)、「新たに無窮の大典を撰定すべき事」(第五条)など、立憲的な国家体制を構想し、行きづまった封建状況を救済せんとした。この議政局を、土佐藩の後藤象二郎らは安易な妥協策として、雄藩諸侯の協議体制(公議政体)として利用しようとした。
 龍馬はしかし、船中八策に示した国家体制の実現を、後藤のごとく安易は妥協案として考えていなかったことは、「船中八策」と内容的に密接な関係にある『藩論』によって明らかにされる。『藩論』は龍馬の死後一年の明治元年(1868)十二月に春陽堂主人の名で刊行されたが、海援隊の刊行物であるので、その指導者である龍馬の考えが強く反映されているとされる。(池田敬正『坂本龍馬』)
 『藩論』はその第一章で王政復古を論じながら、「夫れ天下国家の事、治むるに於いては民この柄を執るも可なり。乱すに於いては至尊これを為すも不可なり」と述べて、人民が「この柄」すなわち主権を握ることを認め、「至尊」すなわち天皇をも決して絶対化していないのである。だから、「故に天下を治め国家を理(おさ)むるの権は、唯人心の向うところに帰すべし」と、世論を重視したのである。さらには門閥政治を批判し、家格制度の廃絶、家臣俸給の平等化を主張したほか、選挙制度の改革を提唱し、結局は藩士だけでなく「封内庶民」にも選挙権を認めることを力説した。龍馬は、急激的は平民性と共和主義思想に達していたのである。
龍馬のこの急進的な思想を最もよくうけついだのが、坂本南海男だったのであろ。

結成 第一話 坂本直寛の人と思想

渡道した土佐郷士たち

kitami2.jpg合資会社北光社をつくり、その社長としてクンネップ原野開拓の先達となった坂本直(なお)寛(ひろ)の入植の動機と理想は、彼の人となりと思想を探ることなしには理解できたないであろう。
 坂本直寛(幼名・高松習吉、のち坂本南海男(なみお))は、土佐自由民権運動の代表的理論家で、植木枝(え)盛(もり)・馬場辰(たつ)猪(い)らと並び称される人物である。父は土佐安田村の郷士・高松順蔵で、母は坂本龍馬の姉・千鶴である。二人の間に二男一女があり、末子習吉の上に姉、茂(弘松宣晴に嫁す)と兄、太郎清行(坂本直)がいた。習吉は嘉永6年(1853)10月5日、黒船来航の年に生まれた。
 父の高松順蔵は文武両道に秀でていた。江戸で経書・絵画・書道を修める一方、剣と居合術の奥義を究め、その居合術は小豆を口中からふき出すと同時に抜刀して切り、それが落ちない間に刀を収めるほどの腕だったという。
順蔵の義弟坂本龍馬も北辰一刀流(小千葉道場)の達人で免許皆伝の腕であったが、土佐の郷士は武士の中でも最下層の待遇をうけていただけに、武芸か学問で身を立てる者が多かったのである。
 土佐藩主山内容堂は、順蔵が文武に秀でたることを知り、再三使者を差し向けて招いたが、順蔵は固辞してうけなかった。順蔵の胸中に、郷士に対する差別への憤慨があり、それが、「いごっそう(反骨)」の性格を形づくっていたからだという。
 順蔵は生涯、土佐安田村の郷士として近郷子弟の教育にたずさわった。その著『経国私言』には、大化の改新を理想にし、「農は国の本にして政の先務なり」と述べているように、順蔵は民百姓の幸福を第一義とする儒学思想家であった。また、「大忠とは只君上一身の為にもあらず、国の為民の為後世稷の為よくよく分別あるべきなり」(『経国私言』)とも述べて、国と民のために尽くすことが急務だと説いている。この理想は、坂本龍馬が『藩論』(後述)に示したものとも合致し、のちの坂本直寛の自由民権思想の端緒を形成したかに想われる。
 順蔵が悩み、龍馬が苦しんだ郷士制度の矛盾は、その後北海道に移住した土佐藩士の多くが、郷士出身者であることを併せ考えるとき、尋常一様の差別でなかったことを感じさせる。北海道移住の土佐郷士には、徳弘正輝(中湧別)、武市安哉(浦臼の聖園農場)、坂本直寛、嶋村喜多海(衛吉の遺族・紋別)らがいる。
 土佐の郷士が武士にくらべていかに低く扱われたかは、山内容堂が郷士をもって、「士にてはこれなく、郷士と唱え候者也」(『山内容堂公遺訓』)と述べていることからもわかる。維新の変革期に土佐勤王党を組織した多くは、武市半平太(瑞山)ら郷士層であった。この勤王党を一時利用した山内容堂が、一たび公武合体の時流となれば、たなごころをかえして瑞山らに「死を賜う」た背景には、郷士の分際で天下に口出しするとは「下郎推参な」との意思が動いたからであろう。
 瑞山と共に捕われた島村衛吉の場合は、士分の扱いすら取り上げられたことを、次の嶋村家文書(紋別市)が語っている。
「島村衛吉は島村壬生男の二男。島村家、慶長五年主家(長宗我部―小池注)没落後浪人となって、土佐国香美郡下島村に居住し、正徳四年郷士職に召し抱えられた。衛吉は幕末に当たり、武者修行のため陸路江戸に至り、桃井春蔵の門下に入り、皆伝を受けた。幕府政を失するや、諸国の勤王の士起ち、帰国して武市半平太と共に勤王を首唱した。
当時土佐藩佐幕の首領たる吉田元吉(東洋)刺客に遭うや、その疑いにより武市と共に入獄、上り屋に居ること三年、白状せざるにつき格式を召され寺町の獄におとされた。拷問を受くること三日、その時獄吏に向かって、『男子ひとたび知らぬと云いしこと、知りたることにても口外せず』と大言し、拷問に斃れた。その後王政復古、明治の御代となり、特旨を以て内閣より従四位の位階を賜与された」(下線、筆者)「格式を召された」とは武士の身分を取り上げられたことで、その後は切腹も許されず、町牢に入れられて拷問死をとげたのである。郷士だったが故の措置といえよう。
 土佐の郷士はなぜかくまでに、士分としては不当な取り扱いをうけたのであろうか。そこには土佐特有の「一両具足」といわれる長宗我部藩政以来の歴史がある。『高知県史要』は、次のように述べている。
「初め長宗我部氏の時代に、一両具足と称する一種の屯田兵を置きしが、何れも多少の土地を有し、平常馬を養い武具を持して武を講じ筋骨を練り、傍ら耕作に従事せるが、田畝に出る時は、必ず具足一領と草鞋(わらじ)とを槍頭に掛けてこれを隴(ろう)上に立て置き、一旦緩急あれば直にこれを執て戦陣に赴くの組織なり、此れ等の兵は軽捷精悍にして、土佐特有の強硬にして制し難き気象を有し、その数九千余人」
 中世社会の兵農分離の一形態である一領具足は、関ヶ原の合戦で主家長宗我部が破れ近世を迎えたことで、激浪に翻弄される。命からがら帰国した長宗我部盛親は、一領具足たちを浦戸城下に集め最後の一戦を試みんとしたが、翻意して家康に詫びる。だが家康は盛親を許さず、土佐一国を山内一豊に与えた。長宗我部家臣二万が浦戸に集結、上士層は山内に降ったが、下士層の一領具足は抵抗した。世にいう浦戸一揆である。戦死した一領具足の首273首級は大阪へ送られ、家康の実検に供えられたという。一領具足の反骨は、その後も「いごっそう」として持ち続けられた。
 山内の入国で旧一領具足は牢人させられ、本百姓として格づけされたが、被官(家来)を召し抱えて賦役労働させる権利は留保された。はげしい抵抗を予想した山内氏の譲歩であった。しかし旧一領具足は、入国した山内氏への抵抗を止めなかった。
 「ニ君に仕えざるの意地からして、其まま山谷にて、春は葛(くず)を掘り夏は蕨を掘り、野地を開き粟を作り、今日の暮らし方は葛布太布を着し、刀はさび候えば自らとぎ、柄(つか)は藤かづらにて巻き、たとえ葛蕨を掘り候ても刀は帯び候」(『土佐国地方資料』)
 反骨の一領具足を士分にとりたてたのが土佐藩中興の家臣・野中兼山である。物部川の山田堰(ぜき)、仁淀川に八田堰を築いて開発した新田に、旧一領具足千人を入植させ、「郷士」とした。徳弘正輝・武市安哉・嶋村喜多海らの先祖は、このようにして郷士になった。
 坂本家の租は長宗我部時代に一領具足であったという説もあるが、確認されていない。坂本家の先祖は、旧才谷村(現南国市才谷)に住み、八平衛守之の代に至って寛文六年(1666)、高知城下に移って質屋を開業した。
これが才谷屋の始祖とされ、やがて酒造業を営んで城下屈指の商家となった。
 才谷屋は六代目八平衛直益の明和四年(1767)に坂本姓を名乗り、四年後に長男兼助が郷士坂本家を相続し、坂本姓を名乗った。
 土佐郷士坂本龍馬は、姉千鶴のとつぎ先である安田村の郷士高松順蔵家をしばしば訪ねたから、順蔵の次男南海男(のち直寛)に親しむ機会が多かった。南海男は龍馬より十九歳年下だから、龍馬が脱藩したときには九歳の少年であった。しかし海援隊結成後の龍馬が、長崎・下関から送った書簡を筆写した順蔵の口から、龍馬の人となりや考えが南海男に伝えられたことは充分考えられる。
 その上、南海男の兄・高松太郎は、叔父の坂本龍馬とともに土佐勤王党に加盟した討幕の志士であった。その後海援隊に参加して小野淳輔を名乗った兄太郎から、龍馬の思想行動を、南海男がくわしく聞いたことも考えられる。
 龍馬が土佐藩を脱藩した以後、南海男は直接叔父龍馬に逢うことはなかった。けれどもこの二人がその思想と行動において符号するところが多いのは、郷士という同じ出身と、叔父・甥に血筋と、南海男の父や兄が龍馬を敬慕していた結果ではあるまいか。

つづく。

第十一話

明治二十二年(1889)二月十一日、片岡健吉、坂本直寛ら保安条例違反者は、憲法発布の恩赦で出獄、獄中で発病した沢本を入院させるために残った坂本・細川・武市は三月四日に帰郷した。
 発布された憲法について、批判的な態度をくずさなかった土陽新聞は、「固より欽定憲法なり国約憲法にはあらざるなり。・・・・・然れども兎も角も憲法と名けられたる者が誕生したるに相違なきなり。・・・・先ず以て日本が憲法と称する者の之れある国と成りしことを失わざるなり、日本人民が憲法と称する者ある国の人民となりしことを失わざるなり、日本が世界の列国中に於て立憲国の籍に入りしことを失わざるなり(植木枝盛)」と評価し、国会さえひらかれれば藩閥政府の牙城をゆるがせるとの自信を、民権家は抱いた。
 明治二十三年(1890)七月の第一回総選挙は、300人の衆議院議員を選出した。党派別は不正確ながら、自由党系(130)と改進党系(40)で過半数を制し、政府と民党とは予算案の審議で対決した。「民力休養・地租軽減」を要求する民党に対し政府は切りくずしに全力をあげ、その結果、土佐派の幹部を中心とする議員が政府と妥協して650万円の削減で予算は成立した。中江兆民は政府のいいなりになる「軟派」の議会を、「無血虫の陳列場」とののしって議員を辞職し、小樽の「北門新報」主筆に迎えられた。
 これらの妥協に対し、キリスト者の立場からきびしく批判したのが、坂本直寛であった。坂本は自伝『予が信仰の経歴』の第十「予が政事上の思想」に、こう記している。

 「予が従来政事上に於て執り来りたる主義は抽象的の自由主義、即ち厳き個人主義にして国家の興廃は一に此主義の消長にのみ関すと思惟せり。故につとめて急激進歩説を唱導したりき。蓋し予をして玆に至らしめたるには英仏米等の革命史大に興りて力ありき。予が此三国の革命史に就て見し所は革命の因固より一ならずと雖も其遠因する処は唯自由主義の発動なりと思い、其興廃の由て関する処別に無形なる、しかも至大なる一個の能力に係わる者ありとは曽て予の発見し能わざる所なりき」

そして神の導きをえた直寛は、次のようにいう。

 「政事化の最も戒むべきは地位名誉黄白(賄賂)等の誘惑にあり。是等の誘惑は常に政事家に伴う処の者にしてまた能く其陥り易き通患なり。今日我邦政況日々に非なる現象あるは主として政事家が之が誘わるるに由るもの多しと為す。蓋し予既往を回顧すれば予亦此誘惑を免れざりき」

 直寛は告白を敢てして、汚辱の政界から遠ざかる理由を明らかにしたのである。明治二十六年(1893)八月、県会議員の任期満了以後、直寛は議員に再び立とうとしなかった。
 日清戦争は、国権論が民権論を圧倒する画期となった。民権クリスチャン坂本直寛もこれを義戦としたし、内村鑑三も「義戦」として日清開戦を支持した。かっての民権論者で、戦争に反対して国内改革を唱える者はほとんどなかった。 日清戦争は見事なまでに、反政府勢力を挙国一致体制の中に包みこんだのである。
 日清戦後、鑑三は、「其主眼とせし隣邦の独立は措て問わざるが如く、新領土の開鑿、新市場の拡張」という帝国主義的侵略・膨張に走る日本国民を糾弾し、「日本国民若し仁義の民ならば何故に同胞支那人の名誉を重んぜざる、何故に隣邦朝鮮国の誘導に勉めざる」と批判し、以後反戦の姿勢を崩さなかった。
 この点直寛は若干ちがっている。日清戦争と、その後の三国干渉は、彼のナショナリズムをはげしく刺激した。
「(日清)戦後欧米諸国益々東洋政略に其意を用ゆるに至り、特に露国が図南の動作いよいよ我邦人の注意を要すべき時勢と為りたるを以て、予は北海道拓殖の等閉に附し去るべからざるを感じ」(『予が信仰と経歴続篇』第三「予が拓殖事業を発起したる元(原)由」)た直寛は、メキシコをやめて北海道を選定したのである。
 しかし坂本直寛が殖民の理想をして描いていたものは、「海外移民論」でも述べたように「中産階級(自営農)」による「自治区(コミュニティ)」の確立であったことは、彼が明治二十九年(1896)に札幌農学校で行なった演説「北海道の発達」からも明らかである。彼の国権論は、民権論の上に立つもので、国権論を強めたあとも、民権思想は脈々と流れていたのである。

第十話

結成 その2 坂本直寛の宗教思想と北海道開拓

高知教会の成立とそれをめぐる人々
沢辺琢磨とニコライ

 土佐とキリスト教との関係は、一般に想像するよりはるかに古く、遠く戦国時代までさかのぼることができる。松山秀美著「高知教会七十年史」には、一条兼定、明石掃部助守重、桑名古庵一家などのキリシタンの迫害にまつわる史実がいくつか紹介されている。 
 同書によると、土佐藩の宗門改めはなかなかきびしく、そのため桑名古庵の悲惨な獄死のあとは、幕末まで土佐にはキリシタンの足跡を見ることができない。ただ、藩政末期になって、とりわけ日本基督教会高知教会及び北海道とも少なからぬ関わりをもった人物を紹介しておきたい。
 坂本龍馬の従兄弟に、山本数馬という人がいた。武市瑞山(通称半平太)とも姻戚になり、江戸の桃井春蔵の道場で、烏天狗にあだ名された剣客であった。
 ある夜、悪友に誘われて飲み歩いた揚句、町人に乱暴し、その上町人が捨てて逃げた懐中時計をねこばばして、ある時計屋に売ろうとしたところ、その時計が盗品であることから足がつき、武士にあるまじき追いはぎ、強盗の仕業として、数馬は切腹のほかなかろうということに相成った。
 龍馬と瑞山とは数馬の人物と将来を惜しみ、一計を講じて彼を江戸の藩邸から放逐することにした。身一つで江戸を脱出した数馬は、奥州を過ぎ、遠く北海道函館の地まで落のび、縁あって同地の神官沢辺家の婿養子となり、名も沢辺琢磨(1833-1913)と改めて神職をつぐこととなったのである。
 たまたまその当時、函館にはギリシャ正教会司祭ニコライ(イオアン=カソトキン)が在住していた。拓馬はもともと尊皇攘夷の思想をもち、さらにキリシタンを邪宗として忌みきらっていいたため、ニコライに敵意と憎しみを抱き、つてを得たのを幸い、面会を申し入れた。場合によっては一刀のもとに両断しようとの魂胆であった。
 ニコライは、後に東京に転じ神田駿河台に有名なニコライ聖堂を建てたほどの優れた人物であったので、沢辺の殺意を悟り、技と面談室に内側から鍵をかけて、悠然と対座した。さすがの沢辺もこのニコライの胆力と気迫に圧倒され、まず立ち上がりに一本とられた形である。
「われわれは、西欧諸国が競って殖民地を獲得しようとするに当たり、まず宣教師を送って懐柔し、しかる後に兵を送って、有無を言わさず事を決したと聞き及んでいる。あなたの国オロシャも、わが国に対し、同様の野望をかくしているのではないか。加うるに、あなたの信仰するキリシタンは、人の生血をすすり、怪しげな魔法を使って人を誑(たぶら)かす邪宗ではないか。早々に退散せぬと眼にものを見せてくれるぞ」。
「あなたはキリシタンの教えを聞いたことがおありですか」。
「左様なものは存ぜぬ」。
「知らぬものを邪宗呼ばわりはちと理にかなわず、無礼ではありませぬか。よく研究された後、あらためて正邪曲直を大いに弁じ合いましょう」。
 勝敗のゆくえは歴然としていた。沢辺も高い志をもつ武士である。理非曲直を明らかにしたニコライのさわやかな説得には脱帽せざるを得なかった。
 彼はもち前の一本気をぶっつけるように、ニコライを師と仰いで深くキリストの教えを学び始めた。神職の家を継ぐ婿養子の身として悩みもなくはなかったが、はじめてきくこの新しい教えは、思わぬ失敗から故郷を捨て、遠く蝦夷の地に仮寓する彼に、新しい人生の門を開くかに思えた。
 函館の医師酒井篤礼と南部の人浦野大蔵とが、彼の同志に加わり、彼らは、邪教を忌む隣人たちの白眼視に堪えつつ求道をつづけ、ついに回心して、ひそかにその住居において、ニコライより洗礼を受けた。明治元年(1868)四月のこと、わが国におけるギリシャ正教最初の信徒であった。
 彼らの信仰は、罪よりの救いを得て、神との交わりの中に想うというような深い信仰理解と体験よりも、維新の激動期にこの新しい宗教によって国民を教化し、国家の改造をはかろうとするものであった。この点、明治初期の多くのキリスト教徒の動機・目的とその軌を一つにしていると言えよう。
 彼らはこの大目的のため、直ちに函館を去り、酒井は郷里宮城県に、沢辺と浦野とは東京に上って計画実現への努力を重ねたが、ことごとく思うに任せず、たびたび挫折した。彼らが函館に同志を集めた時などは、生活の資にも事欠き、沢辺は秘蔵の刀剣を売り払って一時をしのぎ、最後には妻まで売る覚悟をしたと伝えられているが、もちろんそのようなことがキリスト教信仰の立場から許されるわけはなかった。
 沢辺と酒井は、後にギリシャ正教会の司祭となり、日本正教会【ハリストス】の柱石として、その進展のため大いに貢献した。
 沢辺琢磨は、明治八年(1875)、高知に帰り、九反田の立志社学校において、キリスト教の説教をしているが、これはキリシタン禁制の高札が撤去された後、高知でなされたキリスト教の最初の公的発言であった。
 なお、その他キリシタン迫害史の最後を伝えるものとして、長崎の浦上キリシタンの来県があるが、それは割愛したい。


第九話

北光社コミュニティ計画

明治二十九年(1896)、殖民地選定に渡道した坂本直寛は、札幌農学校長新渡戸稲造主宰の札幌の集りで、「北海道の発達」と題する講演を行ない、その中で北海道に造るコミュニティともいうべき殖民地の理想像を語った。
これは、彼が北光社に描いた理想像とみて差しつかえあるまい。

 「余の本道に来りしは去る五月にして、其滞在中或は人より聞き、或は自ら調査するあり。永き経験を有する人々余を訪問する者甚だ多し。彼等余のなさんとする事業の為め、数多の忠告を与えてくれしは余の深く謝する処なるも、余は残念にもこれを容るる能わず。彼等の意見は余の考えと違うなり。彼等曰く、小作人を寛大に取扱う可らず。
よぎなく事をなさしめ即ち疲らせ之を使役すべし。金を前以て与うれば逃走するを以て之を与う可らず、云々と。
 然れども余は移住民に対しては寛大にし、事を余儀なくなさしめては不可なりと思考す。見よ、今日の農場の有様を。土地を小作人に与うは稀にして、場主全く土地を有す。小作は純然たる小作たるに過ぎず。此の方法は将来北海道を盛大にし得るや否や疑うべし。小作人をしてただ疲労せしめ、自由を与えず、牛馬の如く労働これ事とせしめては、果たして北門の鎖(さ)鑰(やく)として保つ事を得るや。
 新世界に通して得たる処の富の蓄積は、正直なる個人的企業に得られたるものなり。北海道の労力者のなす処、之れに同じ処ありや。大凡そ人事は大抵同一なる理を歩み行くものなり。欧と亜と土地異なるあるも道理は同じ。
此の同じ真理の下に発達進歩する者なり。
 北海道の劈頭(へきとう)第一に迎えし殖民は山師的人物にして、また多くは内地の失敗者なり。故に彼等の心中義理もへちまもあらず。只私利を是れ事となすのみ。交際上であれ、事業上であれ、彼等に一片の道義心あるなし。
私利的の人物のみで将来発達進歩すべき北海道を形造るを得べけんや。
 また、北海道は干渉による可らず。道庁設立以来移住開拓或は殖産を発達進歩せしめんが為め、人民に或は土地を与え、或は官金もて家屋を建築して与え、或は補助金を与えて事業を助く。斯くて今日道民の依頼心あるものは皆な政府より金を貰うてなせし結果なり。・・・・これ甚だ悪し。見よ政府干渉して完全に発達せし者未だ之れあらず。見よ笑うべき者甚だ多きは今日の状態ならずや。甚だしき極点とも云うべきは国庫金にて出来し青楼(遊郭)
あり。・・・・・
 国家は個人を以て成立す。分子不健全なれば其全体不健全なり。個々の人民自治独立の精神なくんば其国家の確乎たる独立望み得べからず。・・・思い見よ、此の自治の精神なかりせば北海道の将来果して如何。三国同盟の干渉の如きこと決して起らざる保証あるや。・・・・
 今日平和の日に於て露国は何故無益と思うまでも兵備を厳にし軍艦を派遣するや。かの戦争の当時北海道の有志は此の北門の鎖(さ)鑰(やく)を硏に守り得らるるの気力ありしや。・・・・北門鎖鑰の要地に住する北海道人士は独立自治の精神を涵養し、時に臨んで内地に依頼せざる様に為すべきなり。
 当今新聞紙報じて曰く。台湾土人何の野心あらず。只だ己が台湾の土地日本政府の手に奪取せらるるを悲しみ憂うるの可憐なる一片の憂国愛国(台湾島民の抵抗)の心より出しとせば、何ぞそれ感心すべきの至ならずや。・・
 殖民地に於いては社会の制裁薄弱なれば、其影響人民の風俗に顕象す。わが北海道沿岸の村落を見来れば、慨歎に堪えざるもの多し。人は品格を要す。品格は自治の精神より来る。自治の精神なくんば村落の品格なし。・・・殖民地にして所謂小作主義を取り地主のみ多く取て小作の利不利を顧みざるが如くしては、自治の精神を人心に吹き込む事を得る能わず。・・・・小作人とするよりも小地主として少なくとも小土地を与え、自治独立の人とせざる可らず。又教育をせざる可らず。現時は彼等の子孫を奴隷的に養育するが如し。又自作せしめずして小作せしめて之れを疲労し、之れをよぎなく事をなせしむる如きは絶えてよからず。人云う、寛大にせしが為めに失敗せりと。之れ然らず、己の支配の力足らざりしによる。
 彼等は自治を要す。自治の気象を養成せずんばある可らず。民官共に此の心掛けを要す。政府は北海道の政事の方針果して如何かはいざ知らず、兎にも角にも将来自治の方針たるを希望し、又かくあらざる可らず。教育の不完全なる、余の歎ずる処。宗教の等閑せらるるは余の慨する処也。・・・・」
 直寛はさらに、「海外移民論」(前出)でも述べた「新欧羅巴の三個の事実」(殖民地は労工の場所、その繁栄は個人の思想と労働による、自由と干渉的障碍を免かるることで発達する)を、北海道発達の条件として述べたのである。
 この講演内容は、直寛が北光社開拓に託した理想像とみて差しつかえあるまい。ここは民権と国権の両思想が、キリスト教精神によって統一されたコミュニティ(自治区)の姿が描かれている。
 このコミュニティの原型が、1620年に信仰の自由を求めてメーフラワー号で新大陸アメリカへ移住した独立派のキリスト教による開拓にあったことは、想像にかたくない。自営農による平等の、そして精神的支柱をキリスト教に求めたコミュニティの原型は、遠い新大陸のニューイングランドだけでなく、近い北海道樺戸(現在、浦臼町)の聖園農場にもあることに、彼は言及している。直寛は、同志・武市安哉が明治二十六年(1893)に入植開拓(武市は翌年末に病魔に倒れた)した聖園農場に学んで、第二の聖園農場を道東に創設せんとしたのであろう。
 しかしこのコミュニティ計画は、為政者の北海道開発計画と内面的には対立するものであった。
 自由民権の激化運動を鎮圧した明治政府は明治十八年(1885)に兌換(だかん)銀行券を発行し、景気変動をおさえて金融状況を安定させることに成功した。そのため企業熱は高まり、実業家は資本蓄積の場として北海道開発を求め、また皇室や華族らは北海道を「無所有の未開地」として、大土地所有に乗り出した。明治二十年(1887)、北海道庁初代長官岩村は、「人民の移住を求めず資本の移住を求めん」との施政方針を演説した。この結果、一方では従来の官営事業を払下げて本州資本を誘致するのに囚人労働を使用した。他方、明治二十三年(1890)には兵制を改革して、屯田兵の資格を士族から平民にまで拡げ、中央幹線道路沿いの先駆的開拓に当たらせた。
また、これより早く明治十九年(1886)には、「北海道土地払下規則」を定めて、大面積経営に当る華族・官僚・政商に無制限ともいえる大土地を貸し下げた。
 日清戦争は産業資本が大きく発展し、一方農民や商工業者の没落が進み、北海道への資本と労働力の移動が増大した。明治三十年(1897)の「北海道国有未開地処分法」は、農耕適地の未開地を、華族・官僚・実業家へ無償で無制限に払い下げる一方で、農業志望の移民はほとんど、小作農業の小作人の境涯に追い込まれ、自営農業も小作人に転落させた。坂本直寛のコミュニティ論は、これらの大土地所有、小作農場主義の北海道開拓方針に、対抗する性格を持っていた。
 直寛のコミュニティ計画は、殖民会社北光社(資本金九万円)の株主の容れるところとならなかったようで、彼は北光社を去って聖園農場に移り、高知より家族を呼んで信仰と農耕の生活に入るのであるが、当初彼はその生活を北光社で営む予定にしていたのであろう。
 直寛が、自分が社長である北光社をはなれて、聖園に移住した理由について、聖園出身の吉村繁義氏(故人)は、生前次のような意見を寄せてくれた。吉村氏は、聖園に育ち、その後青山学院に学び、満鉄図書館長をへて海外移住事業に打ち込んだ人で、直寛・安哉・前田駒次に接したことのある、昭和四十八年(1973)当時、唯一人の生存者であった。
 「直寛氏は名家の出であり、財産家であったこと。当時の政治家としては英語にも練達した学者であったこと。
生来聖想家肌のひとが、のちにキリスト教信仰に入り、いっそうピューリタニズムになったのではないかと理解しています。中肉の丈高い、そして容貌は日本人ばなれのした立派な品位のあるお顔でした。当時壇上に立つのにフロックコートを手軽に着慣れたことも、ハイカラではなかったかと思います。
 武市の実行の例(聖園農場創始)もあり、推されて社長になっても、経済(観念)皆無で沢本氏(楠弥、のち北光社社長)とくに駒次(前田)を実務者として携行したことで自信づけたのでしょうが、しかしあの草創の困難な不便な未開地(クンネップ原野)に、どうしてもこの貴公子然たる人はふさわしくないし、長い生活にはたえられなかったのだろうし、だが北海道へ移ることは同志との関係もあり、武市の開いた聖園ならば家庭も辛抱して生活できようと考えて、聖園に定住を決意したのだと思われる。そういうことを別の言葉でいえば、宙に浮いた存在と評しても、あたらない批判ではないかと思っています。また実際家でもなかった。まだ移住者の少ない北光社では、沢庵の重しの役も必要がなかったとも考えられます。
 北光社入りの前に聖園教会で一度、北光社から土佐へ帰る途中で一度と、聖園教会で二回講演されたこと、子供ながらも私も覚えています。おそらくこの時浦臼に移住することを有志と相談し〝武市亡きあとぜひ来い″と浦臼有志も勧誘したということも、充分に想像されることであります。」(拙著『鎖塚』)。
 吉村見解に、直寛の聖園移住の真因があるのかもしれない。               つづく。


第八話

明治二十二年(1889)二月十一日、片岡健吉、坂本直寛ら保安条例違反者は、憲法発布の恩赦で出獄、獄中で発病した沢本を入院させるために残った坂本・細川・武市は三月四日に帰郷した。
 発布された憲法について、批判的な態度をくずさなかった土陽新聞は、「固より欽定憲法なり国約憲法にはあらざるなり。・・・・・然れども兎も角も憲法と名けられたる者が誕生したるに相違なきなり。・・・・先ず以て日本が憲法と称する者の之れある国と成りしことを失わざるなり、日本人民が憲法と称する者ある国の人民となりしことを失わざるなり、日本が世界の列国中に於て立憲国の籍に入りしことを失わざるなり(植木枝盛)」と評価し、国会さえひらかれれば藩閥政府の牙城をゆるがせるとの自信を、民権家は抱いた。
 明治二十三年(1890)七月の第一回総選挙は、300人の衆議院議員を選出した。党派別は不正確ながら、自由党系(130)と改進党系(40)で過半数を制し、政府と民党とは予算案の審議で対決した。「民力休養・地租軽減」を要求する民党に対し政府は切りくずしに全力をあげ、その結果、土佐派の幹部を中心とする議員が政府と妥協して650万円の削減で予算は成立した。中江兆民は政府のいいなりになる「軟派」の議会を、「無血虫の陳列場」とののしって議員を辞職し、小樽の「北門新報」主筆に迎えられた。
 これらの妥協に対し、キリスト者の立場からきびしく批判したのが、坂本直寛であった。坂本は自伝『予が信仰の経歴』の第十「予が政事上の思想」に、こう記している。

 「予が従来政事上に於て執り来りたる主義は抽象的の自由主義、即ち厳き個人主義にして国家の興廃は一に此主義の消長にのみ関すと思惟せり。故につとめて急激進歩説を唱導したりき。蓋し予をして玆に至らしめたるには英仏米等の革命史大に興りて力ありき。予が此三国の革命史に就て見し所は革命の因固より一ならずと雖も其遠因する処は唯自由主義の発動なりと思い、其興廃の由て関する処別に無形なる、しかも至大なる一個の能力に係わる者ありとは曽て予の発見し能わざる所なりき」

そして神の導きをえた直寛は、次のようにいう。

 「政事化の最も戒むべきは地位名誉黄白(賄賂)等の誘惑にあり。是等の誘惑は常に政事家に伴う処の者にしてまた能く其陥り易き通患なり。今日我邦政況日々に非なる現象あるは主として政事家が之が誘わるるに由るもの多しと為す。蓋し予既往を回顧すれば予亦此誘惑を免れざりき」

 直寛は告白を敢てして、汚辱の政界から遠ざかる理由を明らかにしたのである。明治二十六年(1893)八月、県会議員の任期満了以後、直寛は議員に再び立とうとしなかった。
 日清戦争は、国権論が民権論を圧倒する画期となった。民権クリスチャン坂本直寛もこれを義戦としたし、内村鑑三も「義戦」として日清開戦を支持した。かっての民権論者で、戦争に反対して国内改革を唱える者はほとんどなかった。 日清戦争は見事なまでに、反政府勢力を挙国一致体制の中に包みこんだのである。
 日清戦後、鑑三は、「其主眼とせし隣邦の独立は措て問わざるが如く、新領土の開鑿、新市場の拡張」という帝国主義的侵略・膨張に走る日本国民を糾弾し、「日本国民若し仁義の民ならば何故に同胞支那人の名誉を重んぜざる、何故に隣邦朝鮮国の誘導に勉めざる」と批判し、以後反戦の姿勢を崩さなかった。
 この点直寛は若干ちがっている。日清戦争と、その後の三国干渉は、彼のナショナリズムをはげしく刺激した。
「(日清)戦後欧米諸国益々東洋政略に其意を用ゆるに至り、特に露国が図南の動作いよいよ我邦人の注意を要すべき時勢と為りたるを以て、予は北海道拓殖の等閉に附し去るべからざるを感じ」(『予が信仰と経歴続篇』第三「予が拓殖事業を発起したる元(原)由」)た直寛は、メキシコをやめて北海道を選定したのである。
 しかし坂本直寛が殖民の理想をして描いていたものは、「海外移民論」でも述べたように「中産階級(自営農)」による「自治区(コミュニティ)」の確立であったことは、彼が明治二十九年(1896)に札幌農学校で行なった演説「北海道の発達」からも明らかである。彼の国権論は、民権論の上に立つもので、国権論を強めたあとも、民権思想は脈々と流れていたのである。

第七話 民権論から国権論へ

明治十四年(1881)八月、『高知新聞』の「吾人は寧ろ自由の櫌乱を取る可し」の論文で、植木枝盛の抵抗権の要求に理論的基礎を与えた直寛は、十七年(1884)の加波山・群馬・秩父のおこった激化事件を、どう考えていたかを知る資料は、まだ発見されていない。
 明治十七年(1884)の直寛の政治行動については、土居晴夫氏が「自由民権運動期における坂本直寛の行動」(『海南史学』昭和四十五年(1970)六月)に、次のようにまとめている。
 明治十七年一月十三日 正午から九反田(高知)紅梅席で演説、「急進家とは誰か」。外に小島稔ら。(「土陽新聞」)二月三日 午後五時から玉江座で演説、「減租論を誤解する者に告ぐ」、外に安芸喜代香、坂崎斌、西森拙三、宮地茂春ら。(同前)
二月二十九日 愛媛県今治で自由党四国大懇親会が開かれ、小笠原鹿太郎とともに板垣退助に随行する。大会終了後、四国巡回委員として、愛媛県、香川県、徳島県を遊説した。(同前)
五月二十九日 長岡郡稲生村津野達太郎方で演説、「進取せよ 進取せよ」。外に徳弘馬域郎、安芸喜代香ら。
(同前)
六月六日 大阪横堀二丁目で開かれた自由党関西有志懇親会に出席。(自由党史)
 昨日土佐郡役所に於いて開会になりし県会議員補欠選挙は坂本南海男氏が九百四十二の高点にて当選。(六月七日付土陽新聞)
六月十三日 午後一時から大阪道頓堀戎座で自由政談演説会が開催され、星亨、大井憲太郎に伍して演説する「諸君は日本の人民となりては如何」。(土陽新聞)
九月十九日 長岡郡白木谷村で演説「自ら病苦を招く勿れ」。
 これらの演説内容については詳らかにはできないが、彼の行動が自由党の主流派を形成した土佐派の範囲から出ていないことが読み取れる。
 当時の土佐派は、ヨーロッパ旅行から帰国して自由党解党の意図をもった党首板垣退助を擁し、関東・東北の困民党・小作党のうえに立つ革命的急進グループと対立していた。明治十七年三月の自由党大会では、最右翼の土佐派は、星亨=植木枝盛の中間派と結んで、大井憲太郎=「関東決死派」の急進グループを抑えた。急進的な民権思想家の双璧とうたわれた植木と坂本だったが、東京を中心に活動した植木が、土佐派から一歩抜き出す活動が出来たのに対し、ほとんど高知ですごした坂本は、左派であっても主流派内から抜け出すことはなかったと見られる。
 合法主義の立場に立った土佐派=主流派は、自由党急進グループによる加波山事件によって、政府の弾圧と世論の攻撃が自由党に及ぶことを恐れ、解党の決意を固めた。直寛がこれにどう対処したか、詳らかでない。
 土佐派を中心にした自由党主流派の解党論の背景には、国権論の抬頭があった。国権論への傾斜は、次の国際情勢によって強まる。国権論は、明治十五年(1882)から始まる清仏戦争と、朝鮮事変(十五年(1882)の壬午の軍乱、十七年(1884)の甲申事変)によって強まる。内治改良を第一に考えた民権家は、初め日・清・朝関係を平和的に調整することを期待した。
 しかし、清仏戦争が列強アジアの危機を身近かなものにし、帝国主義支配の前兆をつげると、この状況への対応策として、列強アジア蚕食の中間入りを主張する福沢諭吉の「脱亜論」に共鳴する民権家も現れた。民権派の人々にも、国内運動のゆきづまりを外に転ずる志向があった。明治十八年(1885)、大井憲太郎ら関東急進派グループが、朝鮮開化派を援助するためとした渡鮮挙兵計画は、未遂に終わったがその一つの現われであった。
 日本の自由民権論は、最初から民権論と国権論とを併せ持っていた。「自由民権運動の高揚期にあっては、国内の民主革命に向かって全力が集中された結果、国権主義への偏向に堕することを免れたが、運動が解体して国内の抜本的改革の望みが希薄になるにつれ、外に対する国権の要求が内に於ける民主主義の要求を圧倒して優勢化する。国内の改良を先とした平民主義さえも、日清戦争の時期にいたってついに対外侵略主義に転換するとともに、藩閥政府への妥協を敢えてするにいたるのである。」(家永三郎『民権論からナショナリズムへ』解題)「明治二十年代にはいって、国権論と民権論との微妙な関係が潜在的な形から顕在的な形に露呈してくるわけであるが、それにしても、この時期の国権思想は、たとえそれがショーヴィニズム(排外主義)の色彩を濃くもっている場合でも、なお依然として国内民主主義へのつながりを保持しており、その点で昭和時代の軍国主義などと非常に違っていることは看過せらるべきでなかろう」との家永氏の指摘は、坂本の国権論を知る上にも重要である。
 坂本は、明治十八年(1885)五月十五日、宣教師ナックスから洗礼をうけ、高知教会に属して各地を伝道しはじめた。彼が、最後の政治活動としてはげしく燃えたのは、三大事件建白運動であった。明治二十年(1887)秋から暮れにかけ、地租軽減・言論・集会の自由、外交の挽回を叫ぶ民権家の声は、井上馨の「鹿鳴館外交」に反対する国権論者と手をくんで激しさをました。「外交の挽回」とは、条約改正の失敗を正し、国権を回復せよとの要求であった。
 建白運動の先頭に立ったのは高知民権派で、総代片岡健吉・坂本直寛・武市安哉ら十六名が携えて上京した建白書には、「もし政府、内に民権を抑圧するも、外に国権を失墜することなくんば、姑(しば)らくこれを忍ぶべからざるにあらずといえども、内にしてこれを抑圧し、外にしてこれを失墜するに至らば、豈これを黙止するに忍びんや」と記され、三大事件の建白運動が、条約改正を軸に国権論に傾いていた事実を明らかにしている。
 この運動では、久しく対立していた自由・改進両勢力が合流する勢いを示し、懇親会・演説会・運動会
(デモ)が昂り、内部の不統一もあって政府は危機感を深めた。
 十二月二五日、政府は保安条例を発布して、集会や群衆を禁止解散させ、治安を妨害するおそれのある五百七十余人を、皇居三里以外に退去させた。高知からの上京者二百余名が退去を命ぜられ、うち*片岡健吉、西山志澄、※武市安哉、山本幸彦、細川義昌、*坂本直寛、黒岩成存、今村弥太郎、*沢本楠弥、前田岩吉、中内庄三郎、※土居勝郎、楠目馬太郎、山本繁馬、溝渕幸馬、*傍士(や)次(どる)の十六名が退去を拒否して逮捕された。また、一旦横浜まで退去した*安芸喜代香・横山又吉・長沢理定・黒岩一二・門田智も再び上京して逮捕され、都合二十一名が東京監獄署石川島分署に投獄されたのである。(*印は後の北光社、※印は後の聖園農場関係者)条約改正反対運動は、息をひそめていた民権派勢力を勇気づける一方で、ナショナリズムの傾向を強めるきっかけとなり、以後民権派と保守派との提携を可能にする条件を作った。
                                          (つづく)

第六話 直寛の「海外移民論」

日清戦争直後(明治二十八年(1895)内か)に書かれたと思われるこの未発表草稿(直寛の孫直行氏の好意で借覧)は、美濃紙に墨筆で二三字詰二〇行に書かれたもので、次の八節から成っている。
(1)日清交戦は我邦人に海外雄飛の一大好機を与えたり
(2)我邦人戦後処する覚悟一般
(3)我邦人海外移民の必要
(4)殖民は文明進歩の一大動力也
(5)西半球に大いなる殖民地多し
(6)墨西哥(めきしこ)に於ける殖民地建設の計画
(7)殖民事業と宗教
(8)余が墨国殖民事業に関する理想

 次に坂本直寛の原文を出来るだけ生かしつつ、彼の海外移民論を紹介することにする。(下線・括弧内筆者)
(1)では、「蓋し我邦が世人の意想外の此大捷の栄を博したるは、天皇の稜威 と軍隊の忠雄(勇)、其平生の練育軍紀の厳粛策の妙効及国民愛国心の一致等に職由する」と記し、「此交戦は抑我邦の義に出づ。其交戦の目的たる清国をして朝鮮の上に干渉するを絶たしめ、以て其独立を確認せしめたり」として、当時の民権家を含むほとんどの国民と同様、日清戦争を「義戦」としてとらえている。そして「吾人が世界に雄飛して大業を計るを以て大和民族の膨張を計る一大好機を得たり。・・・・・宜しく孤島的な小心を捨て世界的な大志を興すべきなり。今其機既に至れり。其機既に至れり。誠に看よ彼の十字軍の一挙か。」と、海外雄飛を熱っぽく訴えている。
(2)では、「我邦人が戦後に処すべき道一にして足らず。或は云う。大いに陸海軍を拡張して将来の世変に備うべし。或は云う、政事を改革して愈立憲政体を完美ならしむべし。或は云う、大いに教育の進歩を計って国家独立の精神を涵養すべし。或は実業の発達を大成して国民富強の基を確定すべし・・・・・」などを上げ、「今余は之を言わず」とした上で、「大いなる日本を世界に膨張させるべき也。予は此偉業の一つとして海外移民を企図せんことを希望する者也」と述べている。
(3)では坂本龍馬の雄飛思想に似た航海論の角度から述べている。
「今や我邦は征清の一挙ありし以来、大いに船舶を増加せり。宜しく之を以て航海通商殖民事業の為に用ゆべきなり。海外殖民地の発達は、航海通商の事業をして益拡張せしむ。我邦人は征清の余勢と其精神を以て、更に世界に向て是等の事業に従事すべし」とし、「今後世界に対して平時の事業を拡張して又優勝の位地(置)を占めんことを競争すべきなり」としている。
(4)においては、新世界(殖民地)を、政治改革の試験場として利用せよ、と次のように述べている。
「英国の如きすら、猶有名なる法律及政事(治)上の改革を行うに当て、豪州の恩恵を蒙ること少しとせず。
そは豪州に於て始め之を試験し、後ち漸く之を母国に採用すれば也。彼の貧民に投票権を与え、或は失費と手数を要せずして土地を購う便利をこれに与え、或は貧民の為に最も貴重なる法律を作る等の如きは、皆新世界より英国に入輸(輸入)したる賜と云うべき也。」又、英国に於て久しく恥辱たりし死刑公行の廃止の如きも、先ず豪州に於て之を行い、而して後母国漸く其例に習いたるに過ぎざりき」と述べ、その末尾を、「殖民事業、豈唯児孫糊口の為のみならんや」と結んでいる。
(6)では、メキシコが殖民地として適している経済的理由をのべた上で、この国が中等社会を欠くため「上等社会即ち富豪の民族独り専ら威権を恣にし、・・・・自由独立の実ある国と云うべからず。是れ余が同国を以
て我邦の殖民に適当せる土地と為す由縁(所以)也」としている。
(7)では直寛は、英国植民地が「独り長足の発達を為したる」理由として、「第一、殖民地は必ず労働の場処たるべく、決して遊惰の場処たるべからざる事。第二、殖民地の繁栄は多忙なる個人の思想と労力との任務ありて、決して遠方よりの力に由りて機関を使うが如きものにあらざる事。第三、殖民地は或る行為の自由あること無く、干渉せらるることに由りて進歩し能わざる事」の三点を上げ、「殖民地の衰朽する其元(原)因多くは、殖民徳性に乏しくして浮世的の快楽を愛し、博奕飲酒淪色等の悪行を為し、漸く懦惰に流れ精神衰微し風俗壊乱し、平和一致を失い以て殖民地を堕落するにあらざるは莫し」と、ピューリタン的な殖民意図を明らかにしている。そしてその模範的事例として、「遠く外国の例を引用せずとも近くは北海道の殖民地に於て現る」と次の例を上げている。
 「故武市(安哉)氏が開きたる農場の如き、宗教が如何に其新団体を保つかを知るに足る。彼の篤信に由て組織したる月形村の一団は其風俗のみならず、事業場の労力に於いても他の村落と異なる処ありて、其発達速かなるものあるは、北海道人の親しく知る処なるべし。是れ唯其組織法の宜しきのみならず、宗教の練育大に殖民の精神を養い、風俗の純良潔白に保ち、以て殖民をして至大なる希望を将来に抱かしむる所以也」としている。
結語の(8)において直寛は、殖民事業の理想像をかかげる。
 「共和政治の国民なりと雖も、其実猶自治たるに至らずして専制治下の状態依然として存在す。此国民を啓発せんには、第一多数の人民をして自治の気象を喚発せしむるにありとす。故に余の希望する処は、若し我邦の殖民地幸いにして発達するに至れば、自治区を設立して彼の国民に一般行わるる処の飲酒怠惰の陋習に反せる厳粛槿(勤)勉の良風を点じ、自ら始め自ら治めて以て国民自治の基を開き、他の殖民地及び土民村落の好模範と成り、以て建国の骨髄たるべき健全なる中産社会を建設するの模形(型)を造らんこと是なり。・・・・蓋し余が意、クライブ・コルテス等の如き野心あるに非ず。唯々平和の手段を以て理想を行わんのみ」とした。

 以上の「海外移民論」は、北光社移民の思想的基盤を明らかにするものとして重要であるだけでなく、自由民権論から国権論に大きく傾斜した直寛の思想的変遷を知る上に、きわめて重要である。
 坂本直寛の著書のほとんどを網羅した唯一の刊行物である『坂本直寛著作集』(土居晴夫編)は、自由民権の激化事件が頻発した明治十七年の一篇(「減租請願の主旨を誤解する者に告ぐ」土陽新聞)後、明治二十三年九月第一回総選挙後の「自由改進両党之諸氏に徴衷を呈す」(土陽新聞)までの六年間、一篇も記載されていない。
 さらにはまた、明治二十三年(1890)十月以降二十九年(1896)二月の北光社開拓を片岡健吉宛書翰に託するまでの六年間、一篇も記されていない。
 この「沈黙」の十二年間こそ、直寛が民権論から国権論へ、政治家からキリスト者へ、政治で追及して挫折したものを殖民開拓で生かそうと、思想的に苦悩した時期ではあるまいか。
 自由民権思想家中最もラジカルな共和制を志向していた直寛が、「天皇の稜威」を説くに至る過程に何があったのだろう。「専制の治安」より「自由の擾乱」を採るとした直寛が、「厳粛勤勉」で「飲酒怠惰の陋習」を破った殖民を理想としたのはなぜだろうか。これらの疑問について、次章でふれてみたい。

第五話 直寛らが起草した「日本憲法見込案」

「日本憲法見込案」が初めて鈴木安蔵著『自由民権・憲法発布」(白楊社版・近代歴史講座第3冊)に紹介されたのは昭和十四年(1939)である。検閲の為「結社・集会の自由」(三五条)、四九条から九三条にいたる「帝室」に関する項、「国会は帝位を認定す」(九五条)の外五条も削除されたものであった。この草案は、多分政府の密偵が立志社からひそかに入手したものらしいと、戦後鈴木安蔵は『自由民権』(昭和二十三年版)で述べている。
 この立志社の「日本憲法見込案」は、鈴木によって紹介されるまでは幻の私擬憲法草案とされ、後述する植木枝盛の「日本国国憲案」が立志社の「見込案」の成案ではないかとの意見が有力であった。
 しかし大著『日本憲法成立史』の著者稲田正次は、立志社憲法成立過程を「明治十四年三月頃までに土佐の立支社の坂本南海男氏らの手によって日本憲法見込案が作成されたのであるが、同年八月に至って、その草案は植木枝盛によって改稿せられ、それが九月社内の討議に付されて承認され、かくて植木起草の日本国国憲案が立志社の成案とされるに至ったのである」としている。
 また高知の碩学平尾道雄は、その著『自由民権の系譜─土佐派の場合』(昭和四五年(1970))で、「前者(日本憲法見込案)は主として坂本南海男によって起草されたもの、後者(日本国国憲案)は植木枝盛がこれを改稿したもの」と述べている。稲田・平尾とも、植木が明治十四年(1881)八月一日に「高知新聞」の主幹となり、八月四日のその日記に「立志社に往く。憲法を講す」同二十八、九両日「大風雨幽居、日本国憲法を草す」、九月十九日には「立志社に往く。憲法読会」と記したのが、植木の起草過程だとしている。
 さて、坂本直寛が広瀬為興・山本幸彦とともに、立志社から命ぜられて起草した「日本憲法見込案」には人民主権の宣言規定はないが、立法権は国会に属し(二六条)、「国帝は二たび国会の議決を拒むことを得ず」(五九条)として国帝の権限を抑制し、人民主権を具体化している。また国会は条約承認権(六六条)と宣戦講和の権(七二条)を持つなどその権限は広汎で、特に「国帝は他国に転籍寄留する事」(八二条)と「反逆重罪に因て其位を失す」(八三条)ることを規定し、国帝の不可侵特権を認めず、かなり徹底した人民主権の原則を採った。
 このように「人民主権主義の下における弱い君主制をみとめている点において、この案は日本国憲法の先駆的位置を占めるもの」(稲田正次『明治憲法成立史』上)と評価されている。事実、終戦直後、鈴木安蔵は「立志社草案」を参考にして、「憲法研究会」の「憲法草案要綱」を起草した。この要綱は、GHQ民生局にとり上げられ、原稿日本国憲法作成に生かされたのである。

第四話 坂本直寛の自由民権思想

 坂本直寛がその生き方と思想について、父高松順蔵と叔父坂本龍馬の二人から、強く影響を受けていたことは前述した。
 直寛が明治九年(1876)に立志学舎に入る前の「英学を志し県立学校に入り後東京に遊学」時代の思想は、わかっていない。この時代に、植木枝盛と同様、明六社の啓蒙主義から欧米の政治思想への関心を深められていたことも推測される。たとえば、明六社のイデオローグの一人津田真道の、「国の本は民なれば、君は末なること明らかなり」(『明六雑誌』八号)など、啓蒙思想は儒学の革命思想に次いで直寛の思想形成を助けたのではあるまいか。 
 「自由民権思想は、儒学的仁政・公議思想から啓蒙思想へという思想的流れに乗って形成され」だが、「政府は人民の幸福のため設けたものという同じ言葉が、啓蒙思想にあっては為政者の心構えとして説かれ、民権思想にあっては在野国民の権利として使われ」(遠山茂樹「自由民権思想と共和制」)たのであり、直寛も枝盛も啓蒙思想から民権思想への飛躍を、人民の抵抗権・革命権としてとらえた。
 坂本直寛の最初の論稿は、明治十年(1877)の『海南新誌』(九月、六号)に、才谷梅次郎の筆名(叔父龍馬の才谷梅太郎になぞらえた)で「政論」として発表された。「其れ顚覆は必ずしも直接に圧制に因るに非ず。圧制なきも猶生ず。其の生ずるや則ち政府人民の進歩に後るるの時にあるなり」と。これは、啓蒙思想をこえた革命思想の展開であった。革命は「人民の進歩」によって必ず生まれるとする直寛の思想は、その後の彼をして終生人民の教育に力をつくす生き方を貫かせた。
 明治十二年(1879)、直寛は福沢諭吉の『通俗民権論』の、「蓋し国に在て民権を主張するは外国に対して国権を張らんがためなり」との説を駁して、「外国に対して国権を主張するは内国の民権を増長せんがためなり」と訂正すべきだとした。
 直寛は上からの国会開設に反対し、「国会請願者は今後何等の手段をなすべき乎」(明治十三年(1880)八月『愛国新誌』)で、次のように述べている。
 「嗚呼請願者よ、吾人今後の策は各地各個の請願を止め、更に大いに天下の公衆と協議し、全国人民の過半数を得て進んで私立国会を設くるにあるべし」
 直寛は全国人民による下からの私立国会の設立を目指したのである。
 明治十三年(1880)六月、直寛は小島稔(直寛の妻鶴井の名義上の養父)とともに、婦人参政権の実現に尽力し、彼が住む土佐郡上街町会規則に二十歳以上の戸主は男女を問わず選挙権を持つ規定を挿入することを、県令北垣国道に認めさせた。叔父龍馬と同様、婦人尊重の思想を抱いた直寛が、婦人参政権の運動を指導し成功させたのである。
 この上街町会の婦人参政権条項は、隣接する小高坂村村会規則にも波及したことが、『高知新聞』に報道されている。また、『土陽新聞』がまとめた「小歴史」(明治三十二年(1899)七月十九日)には、「その議員選挙の際は男子にして婦女に投票したるもの少なからず」と記し、日本国憲法による男女平等・婦人参政権が現行憲法規定より六十七年前に実施されていたことを伝えている。(この点、外崎光広『植木枝盛と女たち』にくわしい)
 直寛は植木枝盛とともに、圧政政府に対する人民の抵抗権を力説しただけでなく、共和制の到来を主張した点で、日本の自由民権思想家中出色の人物であった。直寛の進歩性は、英国自由主義思想家、とりわけスペンサーに学ぶところが多かったことは、直寛の説論中スペンサーの論を引用することが多いことにも示されている。
 坂本南海男がスペンサーに傾倒したことについては、「土陽新聞小歴史」(明治三十二年同誌に掲載)が、次のように伝えている。
 「坂本氏は明治初年より英学を研究し、広く欧米の政理書並に政治史に通暁し、ミル、ベンサム、スペンサー等の著書は其最も愛読翫味せる所にして、殊にスペンサー氏の著書の如きは、当時我国中央都会の学士すら未だ之を閲読せしものなく、且つ同時代に於て始めて之を購読し之を訳述して広く天下に紹介したるものは松島剛氏の権利提綱なりしが、坂本氏は之に先んじて原書に依りて既に此書を立志社講堂に講述し、板垣君初め立志社先輩諸氏が曽てベンザム、ミル等の政論に慊焉たるものありしも、一たびスペンサー氏の説を知りて大いに自家の持論を確かめ、自由民権の議論をして更に一段の光輝を発せしむるに至りたり云々」
 明治十四年(1881)の「政論」(前出)でも、直寛は述べている。「スペンサー氏曰く、夫れ政制は文明の或る度を表する者なれば、敢て之を恒久肝要のものなりと云うべからず」と引用したのち、「今日現に此の有様を表するは、即ち君民共和政治の類是れのみ」と述べ、「されば君主政権を有する権理(利)あらば人民も亦之を有する名儀なかるべからず」「国民の自由は物理天道の自然より有するものにして、決して君主より授る者にあらざるなり」と、君主主権に対して人民主権の思想を明らかにした。
 また、「世の政府ややもすれば富国恤民の為なりとて、人民の私事に干渉して奇々妙々の条例を設る事」「これ社会の元(原)理に戻りたるもの」と述べて、儒学的・明六社的仁政論を批判した。
 政府高官をして「フランス革命の前夜」とおびえさせた明治十四年(1881)の四月十七日、坂本直寛は高知新聞主催の政談演説会で革命論を展開した。この日、板垣、片岡、武市ら九人の出演で、場内は婦人を含む入場者で立錐の余地もなかった。直寛は「吾人は寧ろ自由の櫌乱取る」と題する演説をし、その内容を後日『高知新聞』に掲載した。この中で直寛は、「専制の治安は、治安にして治安ならず。自由の櫌乱は、櫌乱にして櫌乱ならず。
また専制の治安は社会の開明に益無きも自由の櫌乱はかえって国家を進歩せしむる」と、「自由の櫌乱」すなわち革命を支持した。
 当時、啓蒙思想はもとより自由民権家の中からも、イギリスやフランスの革命における「惨劇」をとらえて、「革命は社会秩序を破壊する」との批判が、政府及び保守派に妥協する形で出されていた。もちろん民権家の中でも中江兆民や馬場辰猪らは、「惨劇」の責任は圧政政府にありと反論した。しかし直寛は、兆民・辰猪らの革命論をさらに前進させ、「革命は圧政に職由せず」「施政の度人民思想の度に相必適するを得ざる所あるが故」革命は起こるとし、「今日我邦の人民は既に世界の経験を熟知せる」ゆえ、「千七百九十年間の仏人の如き拙策を為すこと」はないとした。そして改革は「平和に出でざれば平和に出る」と述べ、「吾党は五帝三王の治を望まんよりは、寧ろ千七百年代の仏国の乱を慕う」(「革命を論ず」)と、革命論を前進させたのである。
 直寛が民権家中その思想を最も突出させていた共和制志向の自由民権思想も、明治十四年の政変以降後退を示した。政変の中で出された「10年後立憲制」の詔勅は、民党・民権家をして国会開設への準備に没頭させ、政府並びに改進党からの共和論非難に対し、自由党は尊王論・立憲君主制を以て防ぐのに専念したからである。
 この思想的後退は、自由民権思想が実践的運動との結合なしに進められたところに、最大の原因があった。
「自由自治元年」を標榜した秩父困民党の蜂起は、共和制論が最も昂ぶりを示した明治十四年(1881)から三年後のことであり、土佐派の直寛や枝盛の抵抗権、革命権の理論は、秩父困民党によって実践に移されたものである。
 しかし直寛の共和制的民権思想は、観念的な弱点を持ったため、その後の民権思想に与える影響は、必ずしも大きくはなかった。だが、今から百年前の自由民権思想が共和制を内包していたことは、自由民権運動が豊かな可能性を示していたことになろう。そして直寛が新たな理想を掲げてその生涯を賭けた北光社移民の中に、この民権思想がどう反映しているか。これを探究することは、重要な課題といえよう。

第三話 坂本直寛の自由民権運動

明治二年(1869)、高松南海男(十六歳)は伯父坂本龍馬の兄、権平の養子になった。龍馬が殺されてから二年後のことである。
 坂本家での南海男は、養母仲(四十歳)、叔母独(三十八歳)従姉春猪(二十七歳)、春猪の子鶴居(五歳)、同兎美(四歳)の七人暮らしだったが、二年後養父権平が他界し、十八歳の南海男が家督を相続した。
 南海男が明治九年(1876)に立志学舎で学ぶまでの経歴は詳らかではないが、「英学を志し県立校に入り後東京に遊学し」(山本秀煌『日本キリスト教会史』)との記述から、英学に専念したことが推測される。「東京では攻玉社に学んだ」と、直寛の長男、直道が語っている。土佐「立志学舎勤怠表」には明治九年(1876)7月に南海男の氏名が記されている。彼の出席率は高く、成績は数学より読方にすぐれていた。
 明治10年(1877)、南海男が最上級生に進んだころの立志学舎には、103名が在学し、その中にはのちに民権家として名をなした大石正己、傍士(ほうじ)了、江口三省、宮地茂春、小笠原鹿太郎らがいた。立志学舎の教育内容は高度で、教科書にはベンサムの法理書やミルの自由之理、ウールセーの万国公法などの原書が使用され、坂本の思想形成に大きく影響した。とりわけスペンサーの著書を好んだ坂本は、『社会平権論』や『代議政体論』など、まだ、日本で読まれていない原書をとり寄せて愛読し、ベンサムやミルの理論にあきたりなくなった、という。後年新聞記者になった坂本は、随所にスペンサーの著書を引用し、彼への傾倒の深さをうかがわせた。
 坂本南海男の名が自由民権運動に出てくるのは明治十年(1877)六月で、西郷隆盛が挙兵し西南戦争が戦われている最中であった。立志社内にも西郷軍に応じようとする国権論的挙兵派と、明治七年(1874)の民撰議院設立建白書をさらに強めた国会開設を要求する民権派とがあった。六月立志社は総代片岡健吉の名で、京都の行在所に建白した。世にいう「立志社建白書」で、政府への鋭い批判でつらぬかれ、国会開設と地租軽減、不平等条約撤廃の民権運動の三大綱領が明確にされていた。政府は受理を拒否したものの、建白書はたちまち流布された。
 六月二十三日の稲荷新地演劇場における立志社の演説会に集まった者四千、うち半分は入場できない状態で混雑甚しく、中途で閉会するほどだった。坂本は政体改革を訴える演説を行い、その後も、地方政社嶽洋社にも、所属し、立志社・嶽洋社、全国組織である愛国社(明治十一年再建)、自由党(明治十四年結党)などが主催する演説会に登壇し、自由民権運動の活動家になった。
 明治十年(1877)七月、立志社機関誌『海南新誌』が発刊されるや坂本は編集に加わり、又同時に発刊された『土陽雑誌』の発行人になり、その後両誌が合併した『土陽新聞』のほか、『大阪日報』『高知新聞』にも、自由民権の筆陣を張った。その内容は、政府に対する人民の抵抗権や共和主義思想を含む急進的なものが多かった。
 この頃から植木枝盛との交流が深まり、二人は互いに訪ねあい、また同じ演壇に立つことが多くなり、互いに裨益しあった。英書をひもとかなかった枝盛にとって、南海男はまたとない「相棒」(家永三郎『革命思想の先駆者』)であった。
 植木枝盛は安政四年(1857)、土佐国土佐郡井口村(現高知市中須賀)の「中等藩士」の家に生まれた。坂本南海男より四歳年下である。明治十一年(1878)、植木家は小高坂村(現在高知市内)に移籍している。
 枝盛は明治五年(1872)、県庁が新設した致道館で儒書のほか翻訳書をも併読し、福沢諭吉の『西洋事情』に啓発されて啓蒙主義に魅かれた。翌年、東京の海南私塾に給費生として入学したが、フランス人教師による陸軍士官の予備校的な性格に反ぱつして退学した。「洋学校に籍をおきながら終生横文字を読まなかった事実に徴すると、あるいは外国語の学習に手を焼き、口実を他に設けて退学を敢行したのではあるまいか」(家永三郎『植木枝盛研究』)と見られている。しかし植木は、「原書の代わりにめぼしい翻訳書を片はしから読破することにより欧米のブルジョアーデモクラシーの精神を的確に自分のものとすることに成功した」(前掲出)のである。
 枝盛は帰郷した高知で板垣退助の演説を聞き、「頗る慷慨心を惹起して」(『植木枝盛自伝』)自由民権運動に参加した。翌明治八年(1875)に再び上京した枝盛は、板垣の娘の家庭教師になり、板垣家に住みこんだ。
 東京滞在中の枝盛は、新聞投書家として思想活動に参加したが、その思想は概して穏和な開明主義で、権力と直接対決するものではなかった。しかし、たまたま『郵便報知新聞』に投じた「猿人政府」から筆禍事件を生じ、枝盛は獄中において言論・思想の自由と、これを確立するためには抵抗権と革命権が必要だとする民権思想に成長した。彼が民権演説を始めたのは、この筆禍事件後であった。
 明治八年(1875)の大阪会議で参議に復した板垣と離れていた枝盛は、七か月後に下野した板垣の「蔭法師の如く秘書官の如く」板垣と意気投合した。明治十年(1877)、枝盛は板垣と高知に帰郷し、愛国社再興から自由党結成へと民権運動の全国的展開に、板垣の手足となって奔走した。この枝盛に最も大きな思想的影響を与えたのが、イギリス自由主義思想に秀でた坂本南海男であった。すなわち、枝盛の抵抗権・革命権の思想は、南海男のイギリス流共和主義思想によってさらに確固たるものにされたのである。
 明治十二年(1879)十一月、大阪での第三回愛国社大会は国会開設願望を当面の運動方針とし、全国的請願斗争へと発展させた画期的な大会となり、参加した坂本南海男は東京を経て北陸を遊説して廻った。
 明治十三年(1880)、国会開設請願運動はピークに達し、三月に大阪で開かれた第四回愛国社大会には、二府二二県の代表96名が約10万名の請願委託者名簿をたずさえて参加した。96名中40名が土佐派であることで、土佐立志社系主導権維持にかける熱意を示した。この年九月、南海男は養家先の義妹鶴井(十六歳)を小島稔の養女として妻にした。同月「自然法は人作法の拒防す可きにあらず」を演説した直後、板垣退助に随行して上京した。
 この四月、土佐派が主導権を握る愛国社からはなれて国会期成同盟が結成され、これを恐れた政府は集会条例を発して弾圧した。しかし第二回国会期成同盟大会は十一月十日東京で全国13万名の委託をうけた代議員によって「国会を開設する允可(いんか)を上願するの書」を起草した。又翌年十月東京に再開し、各社が憲法見込案を持参す
ることを決めた。この大会に、立志社は坂本南海男と山田平左衛門を派遣し、憲法見込案起草委員に坂本南海男、広瀬為興、山田幸彦を指名した。
 この年十月に出た「明治民権家合鏡」という相撲見立て番附表には、行司に片岡健吉、東の大関に板垣退助関脇に箱田六輔、小結に坂本南海男がランクされ、彼の活躍が世人の眼を惹いていたことを語っている。
 明治十四年(1881)は全国政社で私擬憲法の起草が進んだ。しかしその内容が最も急進的だったのは、立志社の「日本憲法見込案」と植木枝盛の「日本国国憲案」だった。二つの憲法私案については、次節で詳述する。
 この年政府の弾圧は強まり、六月十一日の仁井田村演説会は聴衆が溢れたが、南海男の演説は警官に中止を命ぜられた。また同月十五日の立志社演説会でも、中止させられた。
 この七月、北海道開拓使官有物払下げ事件で世論は沸騰し、政府内からも大隈重信などの官有物払下げの非を鳴らす者が出るに至った。巡幸中の天皇が急遽帰京した翌十月十二日、官有物払下げ処分の中止と、きたる明治二十三年(1890)をもって国会をひらくという詔勅と、大隈の免官が発表された。明治十四年の政変である。
 十四年政変の直後十月末に、板垣退助を総理に土佐派が主力となって自由党が結成された。
 明治十五年(1882)五月七日、海南自由党が結成された。結成に当ったのは片岡健吉で、坂本南海男も創立委員として県内各地を遊説し、演説会はどこも盛況を極めた。しかし官憲の圧迫も強く、七月十六日高知新聞は廃刊し、「新聞の葬式」を行った。
 十一月、将来の政党政治の指導者を目ざす自由党総理板垣退助と後藤象二郎は、政情視察のためヨーロッパへ向かった。そのころ、福島の自由党は大弾圧をうけようとしていた。この外遊費が実際は政府より出ていることを自由党と対立する改進党系新聞が暴露し、渡航前の九月には、立志社を代表して坂本南海男と小島稔が上京して、板垣に翻意をすすめた。反対を押し切って板垣は出発したことで、自由党の有力幹部田口卯吉、大石正己末広重恭、馬場辰猪らが脱党した。この間坂本は、中江兆民、河野広中(福島県自由党領袖)、植木枝盛らと会談する。
 明治十六年(1883)、『土陽新聞』連載の絵入小説「汗血千里の駒」(坂崎斌)は、最終回に坂本南海男を取り上げた。
 「坂本の家督を継ぎし小野淳輔は龍馬の甥にして前に高松太郎といえる者なり。現に宮内省に奉職せり。因に説く、此の淳輔の実弟南海男は龍馬の兄権平の家督を継ぎて坂本と名乗りけるが、夙に立志社員となりて四方に遊説し人民卑屈の瞑夢を喝破するに熱心なるが如き頗る叔父龍馬其人の典型を遺伝したるものあるを徴すべく、或は之を路(ル)易(イ)第三世奈波侖(ナポレオン)に比すと云う。」

 この年三月、高田事件が起きる。
 明治十七年(1884)は自由党内の急進派(大井憲太郎・宮部襄ら)を中心にした急進グループの指導で、群馬事件、加波山事件が起こり、さらには十一月困民党に結集した約1万の農民と秩父自由党とが結合した農民蜂起秩父事件がおきた。
 士族や豪農中心の土佐派などの自由党主流派は、これらの激化事件を危険視し、自由党を解党してその累の及ぶことを避けんとした。秩父蜂起の三日前の十月二十九日、自由党は大阪で解党を決議した。結成の日からちょうど三年目のことであった。自由党切っての急進的理論家である坂本南海男が、激化事件を支援した形跡は見当らない。この年二月末、愛媛県今治での自由党四国大懇親会や、六月の大阪での関西有志懇親会に板垣とともに参加した坂本寛は、主流派の枠からは出ていなかったのであろう。
 この年の十二月、南海男を改め直寛を名乗る。明治十八年(1885)五月、坂本直寛は高知教会でナックスより洗礼をうけ、これ以後政治活動と基督教伝道との両方に携わった。
 自由党解党後、自由民権運動は敗北の一途をたどったが、明治二十年年(1887)、三大事件建白運動で、気勢を上げた。三大事件とは、地租軽減、言論・集会の自由、外交の挽回である。政府の条約改正失敗に力を得て、内政批判を噴出させた民権派は、久しく対立していた自由・改進の両勢力が合流する形勢をしめすに至った。
 前年土佐郡より植木枝盛とともに県会議員に当選していた坂本直寛は、この年二月には物部川堤防修理に関する知事の処分を不服として、武市安哉とともに内務大臣に陳情、帰郷しては報告会を開くなど奔走し、九月に事件の解決をみたが、一方では六月の演説が治安に害ありとされ、一年間の県内演説禁止の処分をうけた。
 十月、三大事件の建白委員として片岡健吉、武市安哉、細川義昌、山本幸彦らとともに上京し、十二月二十六日星亨宅に代表委員として会同し、総理大臣面会を協議した。しかし政府は、保安条例を発布し、一年乃至三年間皇居から三里以外への追放を570余名に命じた。片岡健吉ら21名は、退去を拒否してただちに軽禁錮三年に処せられた。彼らは明治二十二年(1889)二月の憲法恩赦まで東京監獄署石川島分署に投獄されたが、その中には、のちに聖園農場・北光社に関係する者が多くいた。
 投獄された坂本直寛は、高知県議の身分を剥奪されたが、獄中で聖書を読み、安芸喜代香を入信させ、開拓の夢を描くなど信仰を深めた。
 明治二十二年(1889)二月に出獄した直寛は、その夏妻鶴井を溺死で失った。翌年県議補選に当選したあと、中沢翠と結婚。明治二十四年(1891)に、再び県議に当選、翌年の二月の総選挙で品川弥二郎内相が指揮する自由党への干渉と戦って勝利する。だが、直寛の自由民権家としての運動は、三大事件建白運動以後次第に後退し、明治二十六年(1893)に県議の任期が満了した以後は政界の表面に出ず、その情熱は基督教伝道に注がれた。

第二話 龍馬の蝦夷地開発計画と思想

北海道開拓は、直寛より早くすでに叔父龍馬が企図するところであった。
 龍馬の父八平直足は、潮江村郷士山本家の出身で、のち坂本家をついだ。この山本家からは沢辺琢磨(函館でニコライから受洗した日本最初のハリスト信者)や、武市半平太の妻・富や、立志社員宮地茂春らが輩出している。
 八平の長男で龍馬の兄の坂本権平が養子にしたのが高松南海男で、のちの坂本直寛であった。龍馬と直寛とは血筋上と養家先との両方で、叔父、甥の関係であった。また、北光社の出資者の安芸喜代香も、権平の妻の妹の子で、直寛とは義理の従兄弟同志であった。喜代香は自由民権家として直寛と行を共にしたあと、直寛のすすめでキリスト者になり、また直寛とのあとをついで北光社二代目社長になり、北光社を訪ねている。
 龍馬は坂本八平の次男で、三人の姉(千鶴・栄・乙女)と兄権平らの末弟として、天保六年(1835)に生まれた。父八平は、郷士に次男に生まれた龍馬を、江戸に出して剣術修行をさせ、ゆくゆくは町道場主として生涯喰っていけるようにとの親心を示したが、この江戸修行が龍馬の非凡な素質を育てることになった。
 高知城下築屋敷に住む郷士出身の日根野弁治から小栗流剣術を学んだ龍馬は、嘉永六年(1853)黒船来航の年に、十八歳で江戸に出た。京橋桶町の千葉定吉道場で北辰一刀流を学んだ龍馬は、城士・郷士の差別がきびしい高知とはちがう、開放的な空気をも吸収した。五年後の安政五年(1858)、龍馬は北辰夢想流と小野派一刀流の免許を伝授されたがその免許状には千葉佐那女ほか二名の女性の名が記入されていた。龍馬が婦人と肩を並べて京都の街を歩くほど女性を尊重したのは、千葉道場の開放的雰囲気の影響かも知れないという。
 この年一旦帰郷した龍馬は、築屋敷在住の絵師河田小龍に師事した。小龍は、アメリカに漂流したジョン万次郎(孫の中浜明氏は元紋別に在住)を取調べた人で、自由な通商航海の必要性と、志を抱く下等人民の力に依拠することの重要性とを、龍馬に教えた。龍馬は師小龍との別れにあたって、「人を作ることは君これに任じたまえ。吾はこれより船を得ることを専らにして、かたわら其人も同じく謀るべし」と語った(小龍『籐陰略話』)。
 龍馬が長崎で海援隊を組織するや、小龍門下から饅頭屋の倅近藤長次郎(別名、上杉宗次郎)や医師今井純正(別名、長岡謙吉。海援隊書記)らが参加した。通商航海策と平民思想と海援隊結成とは、河田小龍から学んだ思想・経論を、龍馬が育て実践したものであった。
 龍馬の北海道開発計画は、三十余年後の坂本直寛の北光社拓植移民の先駆的な考え方とうけとめられる。海援隊を組織した龍馬が、浪人集団による蝦夷地開発の計画を立てたのは元治元年(1864)で、この年起きた池田屋騒動と禁門の変によって、この計画は実行されるに至らなかった。
 慶応二年(1866)、龍馬は薩摩藩を説いて洋型帆船大極丸を手に入れていた。買主は兵庫の商人海屋与三郎、請負人は長崎の小曽根英四郎、周旋人は亀山社中(海援隊)の高松太郎(南海男の実兄)で、代価は一万二千両
であった。この船を龍馬が、北海道開発計画に利用する予定であったことは、彼が慶応三年(1867)三月、河田小龍に協力を依頼した手紙に、「この度すでに北行の船も借りうけ候。その期限は三月中旬より四月朔(ついたち)日には多分出帆仕りたく」と記されていることかた明らかである。この第二次蝦夷地開拓計画も、船価支払いに難渋したため、船は長崎に回航されてしまい、ざ折した。
 この直後、龍馬は薩摩の海軍にいた林謙三に宛て、「私し汗顔の次第」「大極丸の一条ヘチャモクレ(不調に終わる」の国言葉)」と手紙を出し、両人の間に蝦夷地開発の話が通じていたことをうかがわせた。龍馬は、薩摩の武力討幕断行を予見し、国内戦で失う人材を蝦夷地に送り込み、開拓を進め、さらに海軍術を育成すべきだと林謙三との間で論じていた、という。(平尾道雄『海援隊始末記』)
 直寛が龍馬からうけついだと思われるものに共和思想がある。慶応三年(1867)六月九日、長崎から兵庫に向かう船中で龍馬が述べ、長岡謙吉が記述したのが「船中八策」である。船中八策は、「天下の政権を朝廷に奉還せしめ」の第一条から始まり、「上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛せしめ、万機よろしく公論に決すべき事」(第二条)、「新たに無窮の大典を撰定すべき事」(第五条)など、立憲的な国家体制を構想し、行きづまった封建状況を救済せんとした。この議政局を、土佐藩の後藤象二郎らは安易な妥協策として、雄藩諸侯の協議体制(公議政体)として利用しようとした。
 龍馬はしかし、船中八策に示した国家体制の実現を、後藤のごとく安易は妥協案として考えていなかったことは、「船中八策」と内容的に密接な関係にある『藩論』によって明らかにされる。『藩論』は龍馬の死後一年の明治元年(1868)十二月に春陽堂主人の名で刊行されたが、海援隊の刊行物であるので、その指導者である龍馬の考えが強く反映されているとされる。(池田敬正『坂本龍馬』)
 『藩論』はその第一章で王政復古を論じながら、「夫れ天下国家の事、治むるに於いては民この柄を執るも可なり。乱すに於いては至尊これを為すも不可なり」と述べて、人民が「この柄」すなわち主権を握ることを認め、「至尊」すなわち天皇をも決して絶対化していないのである。だから、「故に天下を治め国家を理(おさ)むるの権は、唯人心の向うところに帰すべし」と、世論を重視したのである。さらには門閥政治を批判し、家格制度の廃絶、家臣俸給の平等化を主張したほか、選挙制度の改革を提唱し、結局は藩士だけでなく「封内庶民」にも選挙権を認めることを力説した。龍馬は、急激的は平民性と共和主義思想に達していたのである。
龍馬のこの急進的な思想を最もよくうけついだのが、坂本南海男だったのであろ。

結成 第一話 坂本直寛の人と思想

渡道した土佐郷士たち

kitami2.jpg合資会社北光社をつくり、その社長としてクンネップ原野開拓の先達となった坂本直(なお)寛(ひろ)の入植の動機と理想は、彼の人となりと思想を探ることなしには理解できたないであろう。
 坂本直寛(幼名・高松習吉、のち坂本南海男(なみお))は、土佐自由民権運動の代表的理論家で、植木枝(え)盛(もり)・馬場辰(たつ)猪(い)らと並び称される人物である。父は土佐安田村の郷士・高松順蔵で、母は坂本龍馬の姉・千鶴である。二人の間に二男一女があり、末子習吉の上に姉、茂(弘松宣晴に嫁す)と兄、太郎清行(坂本直)がいた。習吉は嘉永6年(1853)10月5日、黒船来航の年に生まれた。
 父の高松順蔵は文武両道に秀でていた。江戸で経書・絵画・書道を修める一方、剣と居合術の奥義を究め、その居合術は小豆を口中からふき出すと同時に抜刀して切り、それが落ちない間に刀を収めるほどの腕だったという。
順蔵の義弟坂本龍馬も北辰一刀流(小千葉道場)の達人で免許皆伝の腕であったが、土佐の郷士は武士の中でも最下層の待遇をうけていただけに、武芸か学問で身を立てる者が多かったのである。
 土佐藩主山内容堂は、順蔵が文武に秀でたることを知り、再三使者を差し向けて招いたが、順蔵は固辞してうけなかった。順蔵の胸中に、郷士に対する差別への憤慨があり、それが、「いごっそう(反骨)」の性格を形づくっていたからだという。
 順蔵は生涯、土佐安田村の郷士として近郷子弟の教育にたずさわった。その著『経国私言』には、大化の改新を理想にし、「農は国の本にして政の先務なり」と述べているように、順蔵は民百姓の幸福を第一義とする儒学思想家であった。また、「大忠とは只君上一身の為にもあらず、国の為民の為後世稷の為よくよく分別あるべきなり」(『経国私言』)とも述べて、国と民のために尽くすことが急務だと説いている。この理想は、坂本龍馬が『藩論』(後述)に示したものとも合致し、のちの坂本直寛の自由民権思想の端緒を形成したかに想われる。
 順蔵が悩み、龍馬が苦しんだ郷士制度の矛盾は、その後北海道に移住した土佐藩士の多くが、郷士出身者であることを併せ考えるとき、尋常一様の差別でなかったことを感じさせる。北海道移住の土佐郷士には、徳弘正輝(中湧別)、武市安哉(浦臼の聖園農場)、坂本直寛、嶋村喜多海(衛吉の遺族・紋別)らがいる。
 土佐の郷士が武士にくらべていかに低く扱われたかは、山内容堂が郷士をもって、「士にてはこれなく、郷士と唱え候者也」(『山内容堂公遺訓』)と述べていることからもわかる。維新の変革期に土佐勤王党を組織した多くは、武市半平太(瑞山)ら郷士層であった。この勤王党を一時利用した山内容堂が、一たび公武合体の時流となれば、たなごころをかえして瑞山らに「死を賜う」た背景には、郷士の分際で天下に口出しするとは「下郎推参な」との意思が動いたからであろう。
 瑞山と共に捕われた島村衛吉の場合は、士分の扱いすら取り上げられたことを、次の嶋村家文書(紋別市)が語っている。
「島村衛吉は島村壬生男の二男。島村家、慶長五年主家(長宗我部―小池注)没落後浪人となって、土佐国香美郡下島村に居住し、正徳四年郷士職に召し抱えられた。衛吉は幕末に当たり、武者修行のため陸路江戸に至り、桃井春蔵の門下に入り、皆伝を受けた。幕府政を失するや、諸国の勤王の士起ち、帰国して武市半平太と共に勤王を首唱した。
当時土佐藩佐幕の首領たる吉田元吉(東洋)刺客に遭うや、その疑いにより武市と共に入獄、上り屋に居ること三年、白状せざるにつき格式を召され寺町の獄におとされた。拷問を受くること三日、その時獄吏に向かって、『男子ひとたび知らぬと云いしこと、知りたることにても口外せず』と大言し、拷問に斃れた。その後王政復古、明治の御代となり、特旨を以て内閣より従四位の位階を賜与された」(下線、筆者)「格式を召された」とは武士の身分を取り上げられたことで、その後は切腹も許されず、町牢に入れられて拷問死をとげたのである。郷士だったが故の措置といえよう。
 土佐の郷士はなぜかくまでに、士分としては不当な取り扱いをうけたのであろうか。そこには土佐特有の「一両具足」といわれる長宗我部藩政以来の歴史がある。『高知県史要』は、次のように述べている。
「初め長宗我部氏の時代に、一両具足と称する一種の屯田兵を置きしが、何れも多少の土地を有し、平常馬を養い武具を持して武を講じ筋骨を練り、傍ら耕作に従事せるが、田畝に出る時は、必ず具足一領と草鞋(わらじ)とを槍頭に掛けてこれを隴(ろう)上に立て置き、一旦緩急あれば直にこれを執て戦陣に赴くの組織なり、此れ等の兵は軽捷精悍にして、土佐特有の強硬にして制し難き気象を有し、その数九千余人」
 中世社会の兵農分離の一形態である一領具足は、関ヶ原の合戦で主家長宗我部が破れ近世を迎えたことで、激浪に翻弄される。命からがら帰国した長宗我部盛親は、一領具足たちを浦戸城下に集め最後の一戦を試みんとしたが、翻意して家康に詫びる。だが家康は盛親を許さず、土佐一国を山内一豊に与えた。長宗我部家臣二万が浦戸に集結、上士層は山内に降ったが、下士層の一領具足は抵抗した。世にいう浦戸一揆である。戦死した一領具足の首273首級は大阪へ送られ、家康の実検に供えられたという。一領具足の反骨は、その後も「いごっそう」として持ち続けられた。
 山内の入国で旧一領具足は牢人させられ、本百姓として格づけされたが、被官(家来)を召し抱えて賦役労働させる権利は留保された。はげしい抵抗を予想した山内氏の譲歩であった。しかし旧一領具足は、入国した山内氏への抵抗を止めなかった。
 「ニ君に仕えざるの意地からして、其まま山谷にて、春は葛(くず)を掘り夏は蕨を掘り、野地を開き粟を作り、今日の暮らし方は葛布太布を着し、刀はさび候えば自らとぎ、柄(つか)は藤かづらにて巻き、たとえ葛蕨を掘り候ても刀は帯び候」(『土佐国地方資料』)
 反骨の一領具足を士分にとりたてたのが土佐藩中興の家臣・野中兼山である。物部川の山田堰(ぜき)、仁淀川に八田堰を築いて開発した新田に、旧一領具足千人を入植させ、「郷士」とした。徳弘正輝・武市安哉・嶋村喜多海らの先祖は、このようにして郷士になった。
 坂本家の租は長宗我部時代に一領具足であったという説もあるが、確認されていない。坂本家の先祖は、旧才谷村(現南国市才谷)に住み、八平衛守之の代に至って寛文六年(1666)、高知城下に移って質屋を開業した。
これが才谷屋の始祖とされ、やがて酒造業を営んで城下屈指の商家となった。
 才谷屋は六代目八平衛直益の明和四年(1767)に坂本姓を名乗り、四年後に長男兼助が郷士坂本家を相続し、坂本姓を名乗った。
 土佐郷士坂本龍馬は、姉千鶴のとつぎ先である安田村の郷士高松順蔵家をしばしば訪ねたから、順蔵の次男南海男(のち直寛)に親しむ機会が多かった。南海男は龍馬より十九歳年下だから、龍馬が脱藩したときには九歳の少年であった。しかし海援隊結成後の龍馬が、長崎・下関から送った書簡を筆写した順蔵の口から、龍馬の人となりや考えが南海男に伝えられたことは充分考えられる。
 その上、南海男の兄・高松太郎は、叔父の坂本龍馬とともに土佐勤王党に加盟した討幕の志士であった。その後海援隊に参加して小野淳輔を名乗った兄太郎から、龍馬の思想行動を、南海男がくわしく聞いたことも考えられる。
 龍馬が土佐藩を脱藩した以後、南海男は直接叔父龍馬に逢うことはなかった。けれどもこの二人がその思想と行動において符号するところが多いのは、郷士という同じ出身と、叔父・甥に血筋と、南海男の父や兄が龍馬を敬慕していた結果ではあるまいか。

つづく。